【現代語訳】2
 思わせぶりにはにかんで見せて、恨み言をいうべきことをも見知らないふうに我慢して、表面は何げなく平静を装っていて、胸に収めかねて思いあまった時には、何とも言いようのないほどの哀しげな言葉や、胸を打つ和歌を詠み残し、思い出になるにちがいない形見を残して、深い山里や、辺鄙な海浜などに姿を隠してしまう女がいます。

子供でございましたころ、女房などが物語を読んでいたのを聞きながら、とても気の毒に悲しく、何と深く思いつめたことかと、涙までを落としたものでした。

今から思うと、とても軽薄で、わざとらしい仕打ちです。愛情の深い夫を残して、たとえ目の前に薄情なことがあっても、夫の気持ちを分からないかのように姿をくらまして、夫を慌てさせ、本心を見ようとするうちに、一生の後悔となるのは、大変につまらないことです。

『よいお考えだ』などと、周囲に褒め立てられて、気持ちが昂じてしまうと、そのまま尼になってしまいます。思い立った当座は、本当に心も澄んだようで、世俗の生活を振り返ってみようなどとは思わない。

『まあ、何とおいたわしい。こうもご決心されたとは』などと言ったように、知り合いの人が見舞いに来たり、すっかり嫌だと諦めたわけではない夫が、聞きつけて涙を落とたりすると、召使いや老女たちなどが、『殿のお気持ちは、愛情深かったのに。惜しいおん身を』などと言い、自分でも額髪を触ってみて、手応えなく心細いので、泣顔になってしまいます。堪えても涙がこぼれ出してしまうと、何かの時々には我慢もできず、後悔も多いようなので、仏もかえって未練がましいと、きっと御覧になるでしょう。

濁世に染まっている間よりも、生悟りは、かえって悪道に堕ちさまようことになるに違いなく思われます。

切っても切れない前世からの宿縁も浅くなく、尼になってしまう前に捜し出したにしても、ずっと連れ添って、どんなことがあったにしても、何ごともなかったようにしているような夫婦仲こそ、宿縁も深く愛情も厚いと言えましょうに、自分も相手の夫も、不安で自然と気をつかわずにいられましょうか。

 

《左馬頭の話が続きます。

先に結論として「ただひたすら実直で、落ち着いた心の様子がありそうな女性」が妻として望ましいと言ったけれども、話していて彼は、普段そのように見えていた女性が、ある時男にとって全く思いがけない行動を起こすことがある、という、子供の頃に聞いた物語を思い出します。

『集成』がここの「物語」について「当時流行していた作り物語である。…不幸な女の家出といった話を扱って同情の涙をそそるような物語が多かったのであろう」と言っています。

いわゆるお涙頂戴といった話のようですが、ここに語られているエピソードの女性は結果的に周囲の声に振り回されているのであって、女房たちには悲劇として読まれたのかも知れませんが、「自分でも額髪を触ってみて、手応えなく心細いので、泣顔になってしまいます」といったあたりは、ほとんど落語のネタと言ってもいいような滑稽な話と言うべきでしょう。

結婚観、女性観を引き出すような話とは思われません。

そういう中で、「ずっと連れ添って、どんなことがあったにしても、何ごともなかったようにしているような夫婦仲こそ、宿縁も深く愛情も厚いと言えましょう」という感想は、先の結論と並んで、若者らしからぬ現実的でしかも深い洞察を秘めたもので、あるいは作者の述懐なのではないかという気もします。》

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