【現代語訳】
 年の暮には、正月のご装束などについて、大宮はただこの冠君の君の一人だけの事を余念なく準備なさる。何着もたいそう立派にお仕立てになったのを見るのも、ただもう億劫に思われるので、
「元旦などには、特に参内すまいと思っておりますのに、どうしてこのようにご準備なさるのでしょう」と申し上げなさると、
「どうしてそのようなことがあってよいでしょうか。年をとって気落ちした人のようなことをおっしゃいますね」とおっしゃるので、
「年はとっていないけれど、何もしたくない気がすることよ」と独り言をいって、涙ぐんでいらっしゃる。
「あのことを思うのだろう」ととてもかわいそうで、大宮も泣き顔になってしまわれる。
「男は、取るに足りない身分の人でさえ、気位を高く持つものです。あまり沈んで、こうしていてはなりません。どうして、こんなくよくよ思い詰めることがありましょうか。縁起でもない」とおっしゃるが、
「そんなことではありません。六位などと人が軽蔑するようなので、少しの間だとは思っていますが、参内するのも億劫で…。亡くなられた祖父大臣が生きていらっしゃったならば、冗談にも人からは軽蔑されることはなかったでしょうに。何の遠慮もいらない実の親でいらっしゃいますが、たいそう他人行儀に遠ざけるようになさいますので、いらっしゃる所にも、気安くお目通りもかないません。東の院においでの時だけ、お側近く上がります。対の御方だけは、やさしくして下さいますが、母上が生きていらっしゃったら、何も思うことはなかったでしょうが」と言って、涙が落ちるのを隠していらっしゃる様子は、たいそう気の毒なので、大宮は、ますますほろほろとお泣きになって、
「母親に先立たれた人は、身分に応じて、みんなそのように気の毒なことなのですが、自然とそれぞれの前世からの宿縁で、成人してしまえば、誰も軽蔑する者はいなくなるものですから、思い詰めないようでいらっしゃい。亡くなられた大臣がせめてもう少しだけ長生きをしてくれればよかったのに。この上ない後ろ盾としては、父上を同じように頼りに思い申してはいますが、思いどおりに行かないことが多いですね。内大臣の気持も、普通の人とは違って立派だと世間の人も褒めて言うようですが、昔と違う事ばかりが多くなって行くので、長生きも恨めしい上に、生い先の長いあなたまで、このようなちょっとしたことにせよ、身の上を悲観していらっしゃるので、とてもいろいろと恨めしいこの世です」と言って、お泣きになる。

 

《今や夕霧だけが生き甲斐となった大宮は、彼のために元日の参内用の衣裳を用意することに打ち込み、「何着もたいそう立派にお仕立てになっ」て呼び寄せます。

何事かと思って出かけた夕霧は、目の前に並べられた衣裳を見て、かえって憂鬱が募ってしまいます。「なぜなら、それらはすべて六位の衣裳であったから。この衣裳で大勢の前に出ることを思うと耐えられないほどの屈辱を覚える」(『評釈』)のです。

大宮は夕霧の憂鬱を、「あのことを思うのだろう」、つまり雲居の雁とのことがうまくいかないのを悲観してのものと思って慰め、諫めます。彼女の言う中にそれと分かる言葉はありませんが、夕霧の「そんなことではありません(原文・何かは)」は、それと察して、否定する言葉のようです。

夕霧の否定を単純にそのまま聞くことはできないでしょう。彼は、学問の方は進んでいるようですが、実生活においては雲居の雁も惟光の娘も取り上げられて、気持ちの晴れないままに正月を迎えようとしていたのです。

そういうベースがあって、この六位の衣裳のことだったわけです。そして思えば、二人の姫(娘)とのことがうまくいかないのも、「六位」ということが少なからず影を落としているのです。

夕霧は、語り出すと、日ごろの思いがあふれ出て、屈している気持をやさしい祖母にぶつけます。「父は一体なぜ私を六位などにおいたのか」、恨めしい思いが昂じてくるだけではなく、「何の遠慮もいらない実の親」であってほしいのに、そのあまりの立派に威圧される感じなのでしょうか、「気安くお目通りもかないません」と訴えます。

民主主義のこの頃は友だちのような父親が多いようですが、家長という考え方があった頃は、父親は一家で特別な存在であり、特に長男の父親を見る目は特別で、他の子供があまり感じない、独特の距離感、疎外感を抱くことがあるようです。その根底には、いずれその地位を奪う(!)ことになる者としてのライバル心と、しかし現在到底かなわないというコンプレックスとがあるのではないでしょうか。そこに息子として甘えたいという気持が加わりますから、思いは複雑です。

そして夕霧の場合は、源氏が、ある考え(それを夕霧はまだ知りません、それは後に、野分の巻第一章第二段で、夕霧の推察として語られますが、驚くべき、またかなり滑稽なものです)があって彼を居所の東南の邸に厳しく近づけさせないということがあって、いっそう増幅されているようです。

その父への満たされない気持は、これまであまり思ったことのない(少なくとも物語の中では語られたことのない)、母がいないことへの悔しさ寂しさを思い起こさせます。

彼の祖母への訴えようは、まさに思いの昂じるままに、その声が聞こえるようであって、ほとんどだだをこねているようですが、その分、子供らしく率直で、聞く人(大宮)や読む者の胸を打ち、あわれです。

大宮はなだめよう、励まそうとして語り始めるのですが、その思いにほだされ、自分も不満に思っていることもあって、話しているうちに、孫と一緒になって恨み言を言い、涙に暮れるのでした。

しかし、この夕霧の憂鬱もまた、このまま暫くはほどけないままに、物語は源氏の話に戻ってしまいます。》

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