【現代語訳】

 浅葱の服が嫌なので、宮中に参内することもせず塞いだ気持でいらっしゃるのだが、五節だからということで、直衣なども特別の衣服の色を許されて参内なさる。いかにも子供らしく美しい方であるが、お年のわりに大人っぽくて、しゃれてお歩きになる。帝をはじめ参らせて、大切になさる様子は並大抵でなく、世にも珍しいくらいのご寵愛である。
 五節の参内する儀式は、いずれ劣らずそれぞれがこの上なく立派になさっているが、舞姫の器量は、大殿と大納言のとは素晴らしいとほめそやす。なるほどとても美人であるが、おっとりとして可憐なさまは、やはり大殿のにはかないそうもなかった。
 いかにも美しい感じの当世風で、惟光の娘とは分からないよう飾り立てた姿などが、めったにないくらい美しいのを、このように褒められるようである。例年の舞姫よりは、皆少しずつ大人びていて、本当に特別な年である。
 大殿が宮中に参内なさって御覧になると、昔目をおとどめになった少女の姿をお思い出しになる。辰の日の暮れ方に手紙をおやりになる。その内容はご想像できるだろう。
「 をとめ子も神さびぬらし天つ神ふるき世の友よはひ経ぬれば

(少女だったあなたも歳を取っただろう、天の羽衣を着て舞った昔の友の私も長い年

月を経たので)」
 歳月の流れを数えて、ふとお思い出しになられたままの感慨を堪えることができずに差し上げただけのものだが、胸をときめかせるのも、はかないことであるよ。
「 かけて言へば今日のこととぞ思ほゆる日陰の霜の袖にとけしも

(五節のことを言いますと、昔のことが今日のことのように思われます、日蔭のかず

らを懸けて舞い、お情けを頂戴したことが)」
 青摺りの紙をよく間に合わせて、誰の筆跡だか分からないようにして、濃くまた薄く、草体を多く交えて書いているのも、あの身分にしてはおもしろいと御覧になる。
 冠者の君も、少女に目が止まるにつけても、ひそかに思いをかけてあちこちなさるが、側近くにさえ寄せず、たいそう無愛想な態度をしているので、もの恥ずかしい年頃の身では、心に嘆くばかりであった。器量だけはとても心に焼きついて、つれない人に逢えない慰めにでも、手に入れたいものだと思う。

 

《正装である束帯なら浅葱色でなくてはなりませんが、この祭の日は平常服の直衣でよく、それなら違う色でよかったようで、夕霧は五節の儀の当日、気持も晴れ晴れと参内します。服の色さえ変われば、さすがは源氏の息子で、周囲の目を引かずにはいません。帝も眼をお止めになるほどでした。

舞姫達もまたいずれ劣らぬ美しさの中で、源氏が出した惟光の娘は格別でした。

そういう様子を見ながら源氏は、昔心を寄せていた、当時の舞姫を思い出します。筑後の五節と言われる女で、澪標の巻第三章第二段では、源氏への思いもあってでしょうか、夫を持たないままで生きようと決心していることが紹介されていました。そういうことを知ってか知らずか、源氏はその女に手紙を出します。忘れた頃にこうしてちらちらと声を掛けられるのは、女性からすればなかなか辛いことであるように思いますが、作者としては、一度関わりのあった女を決して見捨てないという意味でいい話として書いているのでしょう。

一方息子の方は、なんとか惟光の娘に近づこうとするのですが、娘もまだ初心なのでしょう、「たいそう無愛想な態度をしている」ので、まじめな夕霧はそれ以上どうしいいのか分かりません。家臣の娘なのですから、若い頃の父親ならもっと強引に振る舞ったのでしょうが…。

『伊勢物語』四十段、仲を割かれた恋人同士が思いのあまりに死んでしまった話の後の「むかしの若人は、さるすけるもの思ひをなむしける。今の翁まさにしなむや」という言葉が思い出されます。

華やかな祭の催しの背後を彩なすように、夕霧と今日の舞姫の、そして源氏とかつての舞姫の、それぞれに思うままにならない恋模様が淡く描かれます。》


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