【現代語訳】

 式が終わって退出する博士や文人たちをお召しになって、また再び詩文をお作らせになる。上達部や殿上人も、その方面に堪能な人は皆お留めになる。博士たちは律詩を、普通の人は大臣をはじめとして絶句をお作りになる。興趣ある題の文字を選んで、文章博士が奉る。夏の短いころの夜なので、すっかり夜が明けたころに披講される。

左中弁が読み上げ役をお勤めした。容貌もたいそうきれいで、声の調子も堂々として、荘厳な感じに読み上げたところは、たいそう趣がある。世の信望が格別高い学者なのであった。
 このような高貴な家柄にお生まれになって、この世の栄華をひたすら楽しまれてよいお身の上でありながら、窓の螢を友とし、枝の雪にお親しみになる学問への熱心さを、思いつく限りの故事をたとえに引いて、それぞれが作り集めた句がそれぞれに素晴らしく、「唐土にも持って行って伝えたいほどの世の名詩である」と、当時世間では褒めたたえるのであった。
 大臣のお作は言うまでもない。親らしい情愛のこもった点までも素晴らしかったので、涙を流して朗誦しもてはやしたが、女の身では分からないを口にするのは生意気だと言われそうなので、嫌なので書き止めなかった。

 

《儀式の後は余興の漢詩の会です。

「夏の短いころの夜…」は、それほどたくさんの人が参加していたということでしょう。

左中弁が提出された詩を、それぞれ読み上げます。左中弁は正五位上という位、文章博士よりも二段階上に当たる人です。上位の人に読み上げて貰えるのは、作者としては名誉なことと思われます。

前節の儀式の場面とはうって変わって、「博士たちは律詩を、普通の人は…絶句をお作りになる」と、きちんと秩序が守られています。やはり、長いものよりも短い方が作りやすいのでしょう。もっとも、短歌よりも俳句の方が簡単だと言ったら、本当はやはり問題があるでしょうが。

専門家である博士達と、「その方面に堪能な」上達部、殿上人が集まっただけあって、それぞれ「唐土にも持って行って伝えたいほどの」立派な詩文が作られたようで、一同の面目躍如、ちょっと安心です。

しかし、本会よりも二次会の方がきちんとしていたという趣で、まるで羽目を外したかのようなあんなに大騒ぎだった式の後で、和気藹々、型どおりにこういう二次会が行えるものだろうかという気もします。

作られた詩は、どれもこれも、夕霧の素晴らしさを称えるものであり、源氏の作は、「親らしい情愛のこもった点までも素晴らしかったので、涙を流して朗誦しもてはや」されたと言います。源氏の父性愛というのは、前節にも「とてもかわいいとお思いであった」とあり、この後も時々出てきますが、どうも不似合いに思われて、どこまで本物だろうかと思ってしまいます。

思うに、時にこの作者は、ストーリーの一貫した展開よりも、その場面々々で読者を喜ばせることを優先して考える時があるのではないでしょうか。もしこの物語が絵を見ながら語り聞かせられたのだとすれば、その可能性は更に高くなるでしょう。

もちろん、若紫の巻を書く時に、すでに明石の巻が作者の構想にあったであろうように、大きな流れは意識されていたでしょうが、その一方で、あたかも『枕草子』の筆者が、読者である女房たちの評の影響を受けながら一段ずつを順次書き継いでいったらしいのと同じような意識が、この作者にもあったのではないかという気がします。

同時代の文筆家として、作風の違いはあっても、そういう点で共通する認識があることにそれほど不思議はありません。

「窓の螢を友とし、枝の雪にお親しみになる」は御存知、蛍の光、窓の雪ですが、出典の『蒙求』には、それぞれ「雪に映じて書を読む」「練嚢に数十の蛍火を盛り以て書を照らす」とあり、「窓の」「枝の」は紫式部が作ったイメージです。窓の蛍や枝の雪では書物は読めないでしょうが、これもまた絵としての美しさが優先してのことでしょう。》

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