【現代語訳】
 西面では御格子を下ろしていたが、お嫌い申しているように見えるのもどうかと、一間二間は下ろしてない。月が顔を出して、うっすらと積もった雪の光に映えて、かえって趣のある夜の様子である。

「さきほどの老いらくの懸想ぶりも、似つかわしくないものの例とか聞いたことがある」とお思い出しになって、おかしくお思いである。今宵は、たいそう真剣にお話なさって、

「せめて一言、憎いなどとでも、人伝てではなく直におっしゃっていただければ、思いあきらめるきっかけにもしましょう」と、身を入れて強くお訴えになるが、
「昔、自分もこの御方も若くて、過ちが許されたころでさえ、亡き父宮などが好感を持っていらっしゃったのを、やはりあり得ない事で気がひけることだとお思い申して終わったのに、晩年になって盛りも過ぎ、似つかわしくない今頃になって、その一言をお聞かせするのも気恥ずかしいことだろう」とお思いになって、まったく動じようとしないお気持ちなので、「なんというひどいお方か」とお思い申し上げなさる。
 そうかといって不体裁に突き放してというのではない取次ぎのお返事などが、かえってじれることである。

夜もたいそう更けてゆくにつれ、風の様子が激しくなって、ほんとうにもの心細く思われるので、品よく見える様子で涙をお拭いになって、
「 つれなさを昔に懲りぬ心こそ人のつらきに添へてつらけれ

(昔のつれない仕打ちに懲りもしない私の心こそが、あなたの仕打ちのつらさに加わ

ってつらく思われます)
 どうしようもございません」と口に上るままにおっしゃると、
「ほんとうに」「見ていて気が気でありませんわ」と、女房たちは、例によって申し上げる。
「 あらためて何かは見えむ人のうへにかかりと聞きし心がはりを

(今さらどうして気持ちを変えたりしましょう、他人ではそのようなことがあると聞

きました心変わりを)
 昔と変わることは、今もできません」などとお答え申し上げなさった。

 

《源典侍と別れて、源氏は姫君のところに行くのですが、典侍の色っぽい振る舞いを「老いらくの懸想ぶりも、似つかわしくないもの」と思い出し笑いをしながらですが、無論典侍ほどでの歳ではないにしても、焼け棒くいに何とか火を点そうと出かけていく自分の振る舞いをいっこうに顧みようとしないのは、いい気なものだという気もします。

迎える朝顔の君の振る舞いは、彼女の独特の立場とその人柄をよく示しています。

まず、源氏を避けるように格子を降ろしているけれども、全部ではなく一、二間開けてあります。この頃の我が国の対中・対韓外交方針よろしく、「対話の扉はいつも開いている」というわけです。

それを便りに源氏は出かけて行き、しかし、じつにおずおずと、ほとんどひがみっぽいと言ってもいいような調子で、そのくせどことなく押しつけがましく、君に言い寄ります。

「せめて一言、憎いなどとでも、人伝てではなく直に…」というのは、理解できる思いです。「愛する」の反意語は「無関心」であって、「憎い」は、むしろ愛の一変形であると言われますが、源氏にとってこの君の態度は、まさしく愛の対象外の一おじさんを見る態度に見えているのでしょう。

実際の彼女は、内心で、明石の御方の初めの頃の思いに似た、「(仮に源氏の申し出を受けたとしても)どうせ一人前の夫人として思って下さらないだろう」という懸念から、固く自分の心を閉ざしているのです。明石と違うのは、明石ほど源氏への憧れが強くないという点です。もっともそれも彼女自身気の付かないところで抑えているのかも知れません。『評釈』は「朝顔の心はまだ『世づかぬ』御ありさまなのである」と言いますが、深窓に育ち、長く斎院という閉ざされた世界にいた聡明で潔癖な誇り高い女性にはありそうな姿勢と言っていいでしょう。主体性の強さは違いますが、どこかジイド『狭き門』のアリサに似た印象があります。

拒絶の言葉も「昔と変わることは、今もできません(原文・昔にかはることはならはずなむ)」と、にべもなく、率直です。源氏がこれまで何かあると思い出し、文を交わしていた時の態度とはまったく違います。》

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