【現代語訳】2
 加冠役の大臣が、皇女でいらっしゃる方との間に儲けた一人娘で、大切に育てていらっしゃる姫君を、東宮からも御所望があったのをご躊躇なさることがあったのは、この君に差し上げようとのお考えからなのであった。帝にも御内意をお伺い申し上げなさったところ、「それでは、元服の後の後見する人がいないようなので、その添い臥しにでも」とお促しあそばされたので、そのようにお考えになっていた。

 侍所に退出なさって、参会者たちが御酒などをお召し上がりになる時に、親王方のお席の末席に源氏はお座りになった。大臣がそれとなく仄めかし申し上げなさることがあるが、気恥ずかしい年ごろなので、何ともご挨拶をなさらない。

 御前から掌侍が宣旨を承り伝えて、大臣に御前に参られるようにとのお召しがあるので、参上なさる。御禄の品物を、主上づきの命婦が取りついで賜わる。白い大袿に御衣装一領はしきたりのとおりである。

 お盃を賜る折に、

「 いときなきはつもとゆひに長き世を契る心は結びこめつや

(幼子の元服の折、末永い仲をそなたの姫との間に結ぶ約束はなさったか)」

 お心づかいを示されて、念をおされる。

「 結びつる心も深きもつゆいひに濃きむらさきの色しあせずは

(元服の折、約束した心も深いものとなりましょう、その濃い紫の色さえ変わらなければ)」

と奏上して、長橋から下りて拝舞なさる。

 左馬寮の御馬、蔵人所の鷹を留まり木に据えて頂戴なさる。御階のもとに親王方や上達部が立ち並んで、禄をそれぞれの身分に応じて頂戴なさる。

 その日の御前の折櫃物や、籠物などは、右大弁が仰せを承って調えさせたのであった。屯食や禄用の唐櫃類など、置き場もないくらいで、東宮の御元服の時よりも数多く勝っていた。かえっていろいろな制限がなくて盛大であった。


《源氏の正室となる姫君が話題として登場します。この日の加冠役であり、弘徽殿方に対抗する左大臣が、自分の一人娘を、東宮から所望された返事を引き延ばしておいて、源氏に差し出すことを画策し、この元服の折の「添い臥し」(東宮・皇子などの元服の夜、公卿などの娘が選ばれて、添い寝をすること、またその娘。…後にその配偶者となる例が多い。~『辞典』)に、と帝のお許しを得たのでした。

左大臣とすれば、帝に差し出そうにも藤壺がいるし、東宮のところでは何と言っても右大臣の下に付くことになるし、それに弘徽殿女御が姑では心配だ、今をときめく源氏なら、臣籍といえども申し分ない、と考えたのでしょう。

酒宴となって源氏は親王の末席に着きますが、その下隣は臣下筆頭の左大臣です。帝の配慮なのでしょう。左大臣は早速源氏に「それとなく仄めかし申し上げなさる」のです。しかし源氏は、藤壺に対しては「ちょっとした花や紅葉にことつけても、お気持ちを表し申す」という具合だったのですが、返事をしません。

さすがに結婚となるとまだ幼くて「挨拶のしようを知らない」と『評釈』は言いますが、しかし、本当の理由はそうではなく、この次の節に書かれるように、そこには藤壺への思いが関わっていたのではないでしょうか。それは読者だけが知ることとして、作者はここでは知らん顔をして過ごしていると考えた方が、話が合うように思われます。

帝は、左大臣に禄を渡す折に、歌でその首尾を尋ねるのですが、作者はそれを「お心づかいを示されて、念をおされる(原文・御心ばえありて、驚かさせたまふ)」と書きます。左大臣にとって思いがけないお訊ねだったということです。

それは帝がそれほど源氏のことを気に掛けているということであり、左大臣からすればそういう源氏を婿とすることができるという点でいっそう喜ばしことであるでしょう。彼が庭で舞った舞は、もちろんこういう場合の帝へのお礼の形に則ったものですが、彼の本心からの喜びの舞で、文字通り、手の舞い、足の踏むところを知らず、というように感じられます。

下々への禄が庭に並べられますが、「置き場もないくらい」で、「東宮の御元服の時よりも数多く勝って」いました。それもこれもひたすら、どれほどの寵愛かを示し、そして源氏のすばらしさを強調しているわけです。》



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