【現代語訳】3
 次に、『伊勢物語』に『正三位』を合わせて、今度もなかなか結論がでない。これも、右方は興味深く華やかで、宮中あたりをはじめとして、近頃の様子を描いたのは、興趣深く見応えがする。平典侍は、
「 伊勢の海の深き心をたどらずてふりにし跡と波や消つべき

(『伊勢物語』の深い心を訪ねないで、古い物語だと落としめてよいものでしょうか)
 世間普通の色恋事のおもしろおかしく書いてあることに気押されて、業平の名を汚してよいものでしょうか」と、反論しかねている。右方の大弍の典侍は、
「 雲の上に思ひのぼれる心には千尋の底もはるかにぞ見る

(雲居の宮中に上った『正三位』の心から見ますと、『伊勢物語』の千尋の心も遥か下

の方に見えます)」
「兵衛の大君(正三位)の心高さは、なるほど捨てがたいものですが、在五中将の名は、汚すことはできますまい」と仰せになって、中宮は、
「 みるめこそうらふりぬらめ年経にし伊勢をの海士の名をや沈めむ

(ちょっと見た目には古くさく見えましょうが、昔から名高い『伊勢物語』の名を落

とすことができましょうか)」
 このような女たちの論議で、とりとめもなく優劣を争うので、一巻の判定に数多くの言葉を尽くしても容易に決着がつかない。

ただ、物語絵などあまり見たこともない若い女房たちは、死ぬほど興味深く思っているが、主上づきの女房も、中宮づきの女房も、その一部分さえ見ることができないほど、たいそう隠していらっしゃった。

 

《『正三位』と呼ばれる物語については、『集成』が「散逸物語。『正三位』は、ヒロインの名前であろう」と言っています。

 初めの「今度もなかなか結論がでない(原文・また定めやらず)」というのが、原文の「また」についての苦心の訳です。

ちなみに、『谷崎』は「今度も勝敗が定まりません」と言葉どおり訳していますが、そうすると、前の竹取物語と宇津保物語については結論が出なかったようになります。しかし最後に「左方には、反論の言葉がない(原文・また左にそのことわりなし)」とあったので、普通には、右方の勝ちという結論が出ているのだと考えられますから、この訳には違和感があります。『評釈』も「『うつほ物語』のほうが勝つ」と言っています。

ここの訳は『評釈』のものですが、ここは、議論の途中を言っているのであって、話が白熱したのが「また」なのだと見るのがいいと思われます。平典侍と大弐の典侍の発言は、その白熱した後の終わりの部分を取り上げたものと考えるわけです。

それにしても、ここの議論もまったく形式論で、主人公の身分に比較に過ぎず、そして最後に、中宮の意見が出されましたが、これも主観的感想に過ぎません。後の蛍の巻で源氏の、つまり作者の物語論が語られますが、それはなかなか見識のあるものです。ここは当時の一般的な見方ということなのでしょうか。

それにしても中宮の話でも収まらなかったというのが大変意外ですが、ともあれ、今度は本当に結局結論が出ないままに終わったようです。

終わりの「たいそう隠していらっしゃった」がまたよく解りませんが、『集成』は、中宮が『伊勢物語』や『正三位』の物語絵を隠して見せなかったのだと注を付けていて、本当にそうなら、書いた物がどれほど貴重な物だったか、ということを思わせますが、一面、なんともいじましい気がします。》

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