【現代語訳】

 院におかせられては、あの櫛の箱のお返事を御覧になったにつけても、諦めにくくお思いなのであった。そのころ内大臣が参上なさったので、親しくお話なさる。話のついでに、斎宮がお下りになったときのことを、以前にもお話し出されたので今日もお口にされたが、そのように恋しいお気持ちがあったなどとは、お打ち明けになられない。

大臣もこのようなご意向を知っているふうに顔にはお出しにならず、ただ「どうお思いでいらっしゃるか」とだけは知りたくて、何かとあの斎宮の御事をお話に出されると、御傷心の御様子が並々ならず窺えるので、たいそう気の毒にお思いになる。

「素晴らしい器量だと御執着していらっしゃるご容貌は、いったいどれほどの美しさなのか」と、拝見したくお思い申されるが、まったく拝見おできになれないのを悔しくお思いになる。
 まことに重々しくて、仮にも子どもっぽいお振る舞いなどがあれば、自然にちらりとお見せになることもあろうが、奥ゆかしさが深くなっていく一方なので、そのご様子を拝見するにつれて、実に理想的だとお思い申し上げる。
 このように、帝には他の人の入る余地もなく弘徽殿と宮のお二方がお仕えしていらっしゃるので、兵部卿宮はすらすらとはご決意になれず、「主上が、御成人あそばしたら、いくらなんでも、お見捨てあそばすことはあるまい」と、その時機をお待ちになる。お二方の御寵愛は、それぞれに競い合っていらっしゃる。

 

《確かに宮のあの贈り物への返事の歌(第一段2節)は、「諦めにくくお思い」になるのも無理ないという気がします。院の「京の方に赴き給うな」という言葉は、しきたり上言わなければならなかっただけのものなのですから、それを責められては院の立つ瀬が無く思われます。それにしても無情な言葉に思われますが、どういう仔細があったのでしょうか。

そんな時に源氏が参内して、「親しくお話なさる(原文・御物語こまやかなり)」ということがありました。院は辛い気持を隠しながら、宮の話をされます。

源氏は「ただ『どうお思いでいらっしゃるか』とだけは知りたくて、何かとあの御事をお話に出される」というのですが、そうして院の傷心が分かっても、「お気の毒に」思うだけなのですから、どうも出歯亀的覗き見趣味に思えて、頂けない気がします。

『評釈』は「政治的行為に心を傾けた者の俗的な強さ、優雅さとは反する精神の所業が露呈されている」と言いますが、第二段と同様にここも、源氏が「お気の毒にお思いになる」ような優しい方だと言いたいのでしょう。

男はこういう時は知らない振りをするのが武士の情けで、それが男の美学というものなのですが、女性の美学は違うようです。

院の嘆きの深さを知るにつけても、源氏は宮の美しさを見たいと思うのですが、宮にはまったく隙がなく、見ることができません。

「まことに…」はその話で、彼女に軽はずみな振る舞いがあれば、源氏が垣間見る機会もあるのですが、そういうことがまったくない立派な振る舞いで、源氏は「実に理想的だ」と思ったと言っているわけです。自分が見ることができないから立派だというのは、何とも滑稽です。

さてそれで院の話は措いて、帝の周辺の話です。こうして帝には、遊び相手の奥方と、後見役的奥方の二人が、それぞれに大きな力を持った親を背景に並び立たれることになりました。実は、藤壺の兄で紫の上の父でもある兵部卿宮が、以前から密かに我が娘も、と機会を窺っている(澪標の巻第三章第三段、巻末)のですが、暫くは割り込んでいく余地などないほどに、この二人の立場は盤石だった、と言います。》

 
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