【現代語訳】

 このようにこの方のお気持ちの御機嫌をとっていらっしゃる間に、花散里などをすっかり途絶えていらっしゃったのはお気の毒なことである。公事も忙しく気軽には動けないご身分を思って控えていらっしゃったのに加えて、目新しくお心を動かすお便りも来ないため、慎重にしていらっしゃるようである。
 五月雨の降る所在ない頃、公私ともに暇な折りに、思い立ってお出かけになる。離れていても、朝夕につけいろいろにお心遣いをなさってお世話申し上げていらっしゃるのを頼りとして過ごしていらっしゃる所なので、今ふうに思わせぶりに、すねたり恨んだりなさることがなく、お心安いようである。この何年間に、ますますお邸は荒れて、もの寂しい感じで暮らしていらっしゃる。
 女御の君にお話申し上げなさって、西の妻戸の方に夜が更けてからお立ち寄りになる。月が朧ろに差し込んで、優美なお振る舞いがいよいよ限りなく美しくお見えになる。女君はますます気後れするが、端近くに物思いに耽りながら眺めていらっしゃったままでゆったりとお振る舞いになるご様子は、大変に好ましい。水鶏がとても近くで鳴いているので、
「 水鶏だにおどろかさずはいかにして荒れたる宿に月を入れまし

(水鶏でも戸を叩いて知らせてくれなかったら、どのようにしてこの荒れた邸に月の

光を迎え入れることができたでしょうか)」
と、たいそうやさしく、恨み言を抑えていらっしゃるので、
「どなたもそれぞれに好いところがあることよ。こうだからかえって気苦労することだ」とお思いになる。
「 おしなべてたたく水鶏におどろかばうはの空なる月もこそ入れ

(どの家の戸でも叩く水鶏の音に見境なしに戸を開けたら、浮気な月の光が入って来

て困ることだ)
 心配ですね」とは、やはり言葉の上では申し上げなさるが、浮気めいたことなど、疑いの生じるご性質ではない。長年お待ち申しておられたことも、決しておろそかにはお思いにならないのだった。女君は「空なながめそ」と、力付け申された時のこともおっしゃって、
「どうしてあの時はひどく嘆き悲しんだのでしょう。辛い身の上には同じ悲しさですのに」とおっしゃるのも、おっとりとしていらしてかわいらしい。

例によって、どこからお出しになる言葉であろうか、言葉の限りを尽くしてお慰め申し上げになる。


《かつてあれほど次々にたくさんにいた源氏の周辺の女性は、考えてみると、近くに紫の君、離れて明石の君がいて、この二人が彼の関心のほとんどを占めてしまい、みなそれぞれに遠くなっていって、心をゆさぶられて訪ねて行こうと思うような人はいなくなってしまいました。彼ももうそういう年ではなくなったということなのでしょう。彼は今二十九歳になっています。今彼の心に残っている人は、何人もいません。

その内の一人が、この花散里です。もとより色恋の相手ではありません。ただ不思議に彼の心を落ち着かせてくれる人であることは、昔のままです。明石のことを思えば心が傷み、今は紫の上の顔を見ても明石の君のことを思わねばならない源氏にとって、そういう花散里は、この場合かけがえのない人です。

そこは「所在ない頃、公私ともに暇」な時に、ふらりと行くことのできるところです。そしてこの姫は、ますます荒廃した屋敷にいるのですが、さいわい源氏のそんな扱いに目くじら立てるような人ではありません。何年振りに訪れた源氏を「端近くに物思いに耽りながら眺めていらっしゃったそのままで、ゆったりとお振る舞いになる」ような、そういう人なのです。

『評釈』がこの場面を「一服の清涼剤」、「休息の一時」といいますが、まったく源氏にとって、そして読者にとって、そういう場面です。

「空なながめそ」は、源氏が須磨に向かう際に彼女に言い残した言葉(須磨の巻第一章第四段)ですが、今日まで訪れの亡かった悲しみは、あの時の悲しみに劣らない、という恨みの言葉さえも、「おっとりとしていらしてかわいらしい」と思われる、そういう人なのです。源氏はそういう彼女を、作者自身が「どこからお出しになる言葉であろうか」とあきれるほどに巧みに、慰めるのです。二人にはそういう言葉のやり取り自体が楽しい睦み事と思われているようです。》

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