【現代語訳】2

 しみじみとした明石の夕べの煙の景色や、その折りに歌を詠み交わしたことなど、また、はっきりとではないがその夜の顔かたちをかすかに見たこと、琴の音色が優美であったことも、すべて心惹かれた様子で話し出されるにつけても、

「私はこの上なく悲しく嘆いていたのに、一時の慰み事にせよ、心をお分けになっていたとは」と、穏やかならず、次から次へと恨めしくお思いになって、「われはわれ(私は私、ということでしょうか)」と、背を向けて物思わしげに、
「しみじみと心の通いあった二人の仲でしたのにね」と、独り言のようにふっと嘆いて、
「 思ふどちなびくかたにはあらずともわれぞ煙にさきだちなまし

(愛しあっているお二人がなびいて行かれる方とは違っても、私は先に煙となって死

んでしまいたい)」
「何とおっしゃいます。嫌なことを。

誰により世をうみやまに行きめぐり絶えぬ涙に浮き沈む身ぞ

(いったい誰のために憂き世を海や山にさまよって、止まることのない涙を流して浮

き沈みしてきたのでしょうか)
 さあ、何としてでも本心をお見せ申しましょう。それには、寿命だけは思うようにならないもののようですが。つまらないことで恨まれまいと思うのも、ただあなた一人のためですよ」と言って、箏のお琴を引き寄せて、調子合わせに軽くお弾きになって、お勧め申し上げなさるが、あの人が上手だったというのも癪なのであろうか、手もお触れにならない。とてもおっとりと美しくしなやかでいらっしゃる一方で、やはりしつこいところがあって、嫉妬なさっているのが、かえって愛らしい様子でお腹立ちになっていらっしゃるのを、おもしろく相手にしがいがある、とお思いになる。

 

《源氏は紫の上の様子に安心して、すっかり話してしまいます。

「明石の夕べの煙とは」とは、明石での「出発が明後日」という日(明石の巻第四章第三段1節)に明石の君を訪ねた時の話です。あの日初めて顔をきちんと見、初めて琴を合奏したのでした。そんな話を源氏はします。しかしいくら何でもちょっと話しすぎではないでしょうか。

「私はこの上なく…」という紫の上の思いはまったくもって、無理のない思いです。

「われはわれ」は、「君は君われはわれともへだてねば心々にあらむものかは」(和泉式部日記)によると『集成』が言います。もとの歌は「心に隔てはありません」という意味ですが、ここではそれを逆手に、私たちには心の隔てがありますね、と、悲しそうに背を向けます。しかしそれは、六条御息所や葵の上とは全く違って、純粋に残念そうで悲しそうなのです。決してうらみやねたみが混じらない、いや、なぜか、そのうらみやねたみさえも純粋で素直な彼女の姿が想像できるような気がしないでしょうか。

女性の読者は、あるいはこういうふうに女性が描かれると、腹立たしいのではないでしょうか。余りにできすぎで、いい子ぶっているようにしか思われない、とも言えます。

しかし作者はそういうことが自然にできる人を造形しようとしたのです。女性の適度の焼きもちは、男に妙な満足を覚えさせます。源氏は、妻のそういう姿にすっかり満足します。

『評釈』が「紫の上は正夫人あつかいではない。恋人あつかいなのである。ただ、永遠の恋人なのだ。…正夫人の座に安心して、何の努力もしない人は、源氏はいやなのだ」と言っていて、なるほどと思われますが、ただ「努力」という意志的な言葉はこの場合相応しくないのではないでしょうか。彼女の場合、それはほとんど無意識的な「たしなみ」とでもいうべきものになっているように思います。これはむしろ評者の私的な告白かも知れないと思って読んだ方がおもしろく読めるようです。》

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