【現代語訳】1

 女君には言葉に表してほとんどお話申し上げなさっていないのだが、他からお耳に入ってもいけないとお思いになって、
「こういうことなのだそうです。妙にうまく行かないものですね。そうおありになって欲しいと思うところにはその様子もなくて、意外なことで残念です。女の子だそうなので、何ともつまらない。放っておいてもよいことなのですが、そうも捨て去ることもできそうにないものです。呼びにやってお見せ申しましょう。お憎みにならないでください」とお申し上げになると、お顔がぽっと赤くなって、
「変ですこと、いつもそのようなことをご注意いただく私の心の程が、自分ながら嫌になりますわ。嫉妬することは、いつ教えていただいたのかしら」とお恨みになると、すっかり笑顔になって、
「そうですね。誰が教えたことでしょう。意外にお見受けしますよ。私が思ってもいないほうに邪推して、嫉妬などなさいます。考えると悲しい」とおっしゃって、しまいには涙ぐんでいらっしゃる。

長い年月恋しくてたまらなく思っておられたお二人の心の中や、季節折々のお手紙のやりとりなどをお思い出しなさると、「みんな一時の慰み事であったのだわ」と、打ち消される気持ちになる。
「その人をこれほどまで考えてやり見舞ってやるのは、実は考えていることがあるからなのです。今のうちからお話し申し上げたら、また誤解なさろうから」と言いさしなさって、
「人柄がいいように見えたのも、場所柄でしょうか、めったにないように思われました」
などと、お話し申し上げになる。

《乳母を送った後、源氏は、明石の姫のことを紫の上に打ち明けることにします。「他からお耳に入ってもいけない」というのは、こういう場合適切な配慮ですが、覚悟のいることではあります。そしてその分、逆に信頼を得る可能性も高くなります。

もちろん、周囲には、前の節で乳母を送るに当たって「決して漏らさないよう、口止めなさっ」たままですから、紫の上だけへの話です。

それにしても細心の注意を払って話さなくてはなりません。その第一は、紫の上の誇りを守ることです。彼は、明石の君と紫の上を並べる形で、あなたに比べればあちらは何ほどの者でもなく、子供ができたのはたまたまのことに過ぎない、ただ子供だけは、残念ながらあなたにできなかったのだから、大事にしなければ仕方がない、という言い方です。「捨て去ることもできそうにないものです」の原文は、今になって気がついたという「けり」で結ばれていて、実際に子供が出来てみると、放っておけない気持になったのだ、と言っています。

うまい言い方で、明石の君を実際の気持よりもずいぶん軽く言っていますが、この場合はその必要があるでしょう。

紫の上の「お顔がぽっと赤くなって(原文・面うちあかみて)」というのがどういう反応なのか、ちょっと定かでありません。

彼女の言葉は、私は本来焼き餅を焼くというようなことは知らない女だったのだが、こういう時についその気持ちをもってしまうのは、あなたがそういう気持ちを教え込んだからなのだ」と言っているようですから、そこから考えると、やはり源氏の話から明石の君に嫉妬を感じて、それを恥じて「赤くなっ」たと考えるのがいいのではないでしょうか。

源氏が長い間かけて「女性というものは気持ちの素直なのが好いのです」と教えた(若紫の巻第三章第三段4節)効果でしょうか、人柄なのでしょうか、彼女は本当に嫉妬というものを、見苦しく、恥ずかしいものと考えているようです。もちろん、だからといって、嫉妬を感じないわけではありません。それを抑制する術を身につけているようなのです。

一面それは内攻しそうで怖い気もしますが、彼女がこのように言うと、その幼い頃の明るさと素直さの印象から、それが可能なことなのだと読者は信じさせられ、すねる気持と甘えとが混じった、たいへんかわいらしい様子に思えるから不思議です。

そういう紫の上を見て、源氏はいっそういとおしく、涙をこぼしてしまいますが、それをまた紫の上は信じることができるのです。

その源氏の様子から、結局彼女は、これまでのさまざまな他の女性との関係は「みんな一時の慰み事であったのだわ」という気持になるのでした。

これが作者の考える理想的な夫婦ということなのではないでしょうか。夫の浮気が公式に認められていた時代の、考え得る女性の唯一の平和な対応の仕方と言うべきでしょうか。そういうことも含めて、紫の上のキャラクターは確かに魅力的なもので、この人が登場すると、いつも物語が明るく穏やかなものになります。彼女は二条院の主婦として、そのような存在だったのだとも思われるのです。》

 

※ 突然この物語とは関係のない話で恐縮ですが、正月早々ショックを受けています。

先頃パリで風刺漫画に抗議しての新聞社襲撃事件があり、それを言論の自由を侵すものと抗議して三百万人とも言われるデモが行われました。私は襲撃事件よりもそのデモの方に衝撃を受けました。

  人の信じる宗教の祖を諧謔の種にするのは、あまり品のいいことではありません。しかも、伝えられるところによれば、その新聞は普段から品のない三流新聞とされているのだそうです。

しかし、それでもその言論の自由は守られなければならないと、かの国の人々は考えて、これほどの人が集まったのであり、五十に及ぶ元首級の人も参加して、その新聞社の名を叫んだのだそうです。

そのデモの背景にはさまざまな政治的思惑もあるにはあったでしょうが、しかしその数は、それ自体が私たちに語りかけてくる、ある意味を持っていると思います。

今、私たちが借用し、その恩恵にあずかり、その果実を享受している個人主義、民主主義はそのようにして築き上げられ、守られてきた、ということなのですが、私たち日本人に、そのようにして守ろうと一致する何があるか、仮にあるとして、それを守るべきいかなる手段・方法を想定しているか、そう問いかけられた気がしたのです。

彼らは「米国の9・11へのデモは自分たちの命を守ろうとするものだが、私たちは私たちの価値観を守るのだ」と言っているそうです。

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