【現代語訳】

 御譲位なさろうとのお心積もりが近くなったのにつけても、尚侍の君が心細げに身の上を嘆いていらっしゃるのを、とてもお気の毒に思し召されるのであった。
「大臣がお亡くなりになり、大宮もずいぶんご病気が重くおなりになっていらっしゃる上に、私の一生までが長くないような気がするにつけて、とてもお気の毒なことに、かつてとすっかり変わった状態で後にお残りになることだろう。以前から、あの人より軽く思っておいでだが、私の愛情はずっと他の誰よりも深いものだから、ただあなたのことだけが、愛しく思われていたのだった。あの私以上の人が、再びお望み通りになって契りを結ばれても、並々ならぬ愛情だけは私以上ではないだろうと思うのさえ、たまらない」と言って、お泣きあそばす。
 女君が、顔は赤くそまって、こぼれるばかりのお美しさで、涙もこぼれるのを、一切の過失を忘れてしみじみと愛しくいと御覧になる。
「どうして、せめて御子だけでもお産みくださらなかったのだろう。残念なことだ。ご縁の深いあの方のためなら、すぐにでもお生みになるだろうと思うにつけても、たまらないことだ。身分に限りがあるので、臣下としてお育てになるのだろうね」などと、先々のことまで仰せになるので、とても恥ずかしくも悲しくもお思いになる。

お顔など優雅で美しくて、この上ない御愛情が年月とともに深まるように大切にお扱いあそばすので、源氏は素晴らしい方であるが、それほど深く愛してくださらなかった様子やお気持ちなど、自然と物事がお分かりになってくるにつれて、

「どうして自分の若く至らなさのために、あのような事件まで引き起こして、自分の名はいうまでもなく、あの方のためにさえ」などとお思い出しになると、まことにつらいお身の上である。

 

《朱雀帝はいよいよ退位を考えます。

その彼は、最大の庇護者であった両親の支えを失って、今、裸の王様といった状況で、尚侍の君だけが心の拠り所のはずなのですが、その彼女も、思えば本心は源氏に靡いているように、帝には思えているのです。

それにしてもこの帝は源氏を赦免した時の覚悟を忘れてしまったような女々しさで、その愁嘆はたいへんに愚痴っぽく嫌みで、今の私たちにはほとんど卑屈にさえも思われます。

しかし考えてみれば、源氏がこれまで女性を失う時の嘆きもずいぶん女々しいものでした。その時の言葉が、この帝のように卑屈には聞こえなかったのは、空蝉にしても夕顔にしても、他の男性に取られるものではなく、運命によるものだったからに過ぎないのではないでしょうか。

あるいはむしろこういう嘆き方こそ、当時の世の色好みなのであって、多分作者や当時の読者にとって、こういう嘆き方がむしろ受け入れられ、称讃されたとも考えられます。

実は、たまたま今日の地方紙に絵本作家五味太郎氏の「百人一首ワンダーランド」の刊行記事があったのですが、その中に「当時の貴族社会には劇場のような雰囲気があって、人々はその身分を演じる役者のような意識があったのではないか」という氏の言葉があって、大変に興味深く読みました。この時はこういうふうに嘆くもの、という意識が朱雀院の中で働いたのだと考えると、かえって帝に人間味が感じられるような気もします。

何と言っても、尚侍の君はこの帝の言葉を少しもいやだと思っている様子はなく、それどころかこの言葉によって、あれほど奔放だったこの人にはしてはまったく意外に思われる、自分の来し方を全否定するような、本気らしい反省、後悔をしているのですから。》

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