【現代語訳】

源氏の君は、難波の方に渡ってお祓いをなさって、住吉の神にも、お蔭で無事であったので、改めていろいろと願を立てたそのお礼に改めて参る旨を、お使いの者に申させなさる。急に大勢の供回りとなったので、ご自身では今回はお参りになれず、格別のご遊覧などもなくて、急いで京にお入りになった。
 二条院にお着きになって、都の人もお供の人も、夢のような心地で再会し、喜んで泣くのも縁起が悪いくらいまで大騷ぎしている。
 女君も、生きていても甲斐ないとまでお思い棄てになっていた命を、嬉しくお思いのことであろう。たいへんに美しくご成人なさって、ご苦労の間に、うるさいほどあったお髪が少し減ったのも、かえってたいそう素晴らしいのを、源氏は、「もうこうして毎日お会いできるのだ」と、お心が落ち着くにつけて、また一方では、心残りの別れをしてきた人が悲しんでいた様子が、痛々しくお思いやりになられる。やはり、いつになってもこのような方面では、お心の休まる時のないことよ。
 その女のことなどをお話し申し上げなさった。お思い出しになるご様子が一通りのお気持ちでなく見えるのを、並々のご愛着ではないと拝見なさるのであろうか、さりげなく、「身をば思はず(忘れられた私の身の上は思いませんが)」などと、ちらっと嫉妬なさるのが、しゃれていてかわいらしいとお思い申し上げなさる。

「こうして見ていてさえ見飽きることのないご様子を、どうして長い年月会わずにすごしたことか」と、信じられないまでのお気持ちがなさるにつけて、今さらながら、まことに世の中が恨めしく思われる。
 まもなく元のお位に復して、員外の権大納言におなりになる。以下の人々も、しかるべき者は皆元の官を返し賜わって世に復帰するのは、枯れていた木が春にめぐりあった有様で、たいそうめでたい感じである。

 

《都への帰途、住吉神社に、今は自分は行かれないので使いを出して、後日改めて必ずお礼のお参りをすることを約束しますが、これが後に一つの出来事を生む伏線となっています。

そしてめでたく源氏の帰京です。およそ一年五ヶ月ぶりに見る紫の上は、ひときわ美しく成長していました。源氏二十八歳、彼女は二十歳という、当時としては女性のまっ盛りの年で、苦労で髪が少し減ったことまでが源氏の心を惹きました。

「身をば思はず」は、「忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな」で、『評釈』は「忘れられた私の身の上の事よりもまず、命をかけて契った人の、生命のほどが案じられることだ」と解釈して、「光る源氏の浮気をたいへん上手に咎めている」と言いますが、ちょっと分かりにくく思われます。「私のことは忘れて、その人のことばっかりをご心配なさるのですね」といった感じなのでしょうか、この場合紫の上は「忘らるる」ではなく、これまで「忘れられていた」のですから、ぴったりと当てはまるわけではないのが、こういう場合あまりぴったりしていると本当に焼きもちを焼いている形になりそうです。ここはとりあえず下の句の意味だけが生きているという形にして、少し外れている方が角が立たず、かえって「上手に咎めている」と言えそうな気もします。

源氏一党の復位復権がなって、「枯れていた木が春にめぐりあった有様」だと言います。ありふれた比喩だとは思いますが、いかにもめでたく、いかにもぴったりです。》

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