【現代語訳】2

 少しためらいがちに、何かと言葉をおかけになるが、

「こんなにまでお側近くではお目に掛かるまい」と深く決心していたので、何となく悲しくて、気を許そうとしない態度を、

「ずいぶんと貴婦人ぶっていることだ。容易に近づきがたい高貴な身分の女でさえ、これほど近づき言葉をかけてしまえば、気強く拒むことはないのが今までであったが、私がこのように落ちぶれているので、見くびっているのだろうか」としゃくで、いろいろとお迷いになっていようだ。

「思い遣りなく強引に振る舞うのも、この場合に相応しくない。根比べに負けたりするのは、体裁の悪いことだ」などと、心乱れて恨みごとをおっしゃる様子は、ほんとうにものの情趣を理解する人に見せたいものである。
 近くの几帳の紐に触れて、箏の琴が音をたてたのも、取り片付けてなく、くつろいだ普段のまま琴を弄んでいた様子が想像されて、興趣あるので、
「噂に聞いていた琴までも聴かせてくれないのですか」などと、いろいろとおっしゃる。
「 むつごとを語りあはせむ人もがな憂き世の夢もなかば覚むやと

(睦言を語り合える相手が欲しいものです、この辛い世の夢がいくらかでも覚めはし

ないかと)」
「 明けぬ夜にやがてまどへる心にはいづれを夢とわきて語らむ

(闇の夜にそのまま迷っております私は、どちらを夢と区別してお話し相手になればいいでしょうか)」

物腰のひそやかな感じは、伊勢の御息所にとてもよく似ている。何も知らずにくつろいでいたところに、こんな意外なおいでで、たいそう困って、近くの部屋の中に入っていて、どのように戸締りしたものか、固いのだが、無理して開けようとはなさらない様子である。けれども、いつまでもそうしてばかりいられようか。

 

《招くように入道が少し開けていた木戸から入った源氏は、娘の部屋の外からそっと声を掛けます。すぐに源氏と気づいた娘は、あまりに思いがけないことに「何となく悲しくて(原文・もの嘆かしうて)」、いっそう心を閉ざしてしまいました。

それは、どうせ自分など、という例のコンプレックスからなのですが、実は源氏の方も、娘のそういう頑なな態度を「私がこのように落ちぶれているので、見くびっているのだろうか」とコンプレックスから勘違いをして、こちらも「千々に心乱れてお恨みになる」のでした。娘の方は緊張感から身を縮めている感じですが、源氏の方はそれとの対照でちょっと滑稽な場面です。

しかし、心を乱しながら、逢ってくれないことを恨む調子で口説く源氏の様子は、草子口で「ほんとうに物の情趣を理解する人に見せたいものだ(げにもの思ひ知らむ人にみせばや)」というくらいに見事なもので、娘の緊張を解きほぐさずにはおきません。

この言葉は、今夜の入道の誘いの「あたら夜の」の歌にあった「心しれらむ人に見せばや」を受けていて、娘もそうかも知れないが、あの恋の手練れであるはずの源氏が、今この口説きの場面で困っている姿も、入道の言葉ではないが、「心ある人に見せたい」ほどで、一興でしたと、言っているというわけです。

この時娘が奧の部屋に入ってしまったのでしょう、「近くの几帳の紐に触れて、箏の琴が音をたて」ました。それによって今まで娘はそこにいて琴でくつろいでいたことが分かって、彼女のプライベートの中に入り込んだ感じです。

「物腰のひそやかな感じは、伊勢の御息所にとてもよく似ている」は、奧へ移る娘の気配を言っているのでしょうか、「伊勢の御息所」と言えば六条御息所で、その「ものごとをあまりにも深くお思い詰めなさるご性格」(夕顔の巻第三章)だけを除けば全てに最高のたしなみを持った人として扱われてきた人で、この一瞬に、この田舎娘の希有な素晴らしさが感じられたのでした。

奥に入った娘は、襖を固く閉ざして、なおも容易に心を開く様子はありません。

しかし、源氏は先ほどの気配にいっそうこの娘に心惹かれており、彼女ももともと源氏に心惹かれていたことは、間違いないことで、ただそれを自分で禁じていたに過ぎません。

二人ともが、「いつまでもそうしてばかりいられようか」という次第になっていったのは、ごく自然なことであったのです。》

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