【現代語訳】2

 何もすることもないころ、大殿の三位中将は今では宰相に昇進して、人柄もとてもよいので、世間の信頼も厚くていらっしゃったが、世の中がしみじみつまらなく、何かあるごとに恋しく思われなさるので、「噂が立って罪に当たるようなことがあろうともかまうものか」とお考えになって、急にお訪ねになる。
 一目見るなり珍しく嬉しくて、悲しさも交じって涙がこぼれるのであった。お住まいはいいようもなく唐風である。その場所の有様は、絵に描いたようである上に、竹を編んだ垣根を廻らして、石の階段、松の柱など、粗末ではあるが、珍しく趣がある。
 山里の人のように、許し色の黄色の下着の上に青鈍色の狩衣、指貫は質素にして、ことさら田舎風にしていらっしゃるのが、実に見るから微笑ましく美しい。
 身近にお使いになっている調度も、しいて一時の間に合わせ物にして、ご座所もまる見えにのぞかれる。碁、双六の盤、お道具、弾棊の具などは、田舎風に作ってあって、念誦の具は、さっきまで勤行なさっていたように見えた。

お食事を差し上げる折などは、格別に場所に合わせて、興趣あるもてなしをした。

 海人たちが漁をして、貝の類を持って参ったのを、召し出して御覧になる。海辺に生活する様子などをお尋ねになると、いろいろと容易でない身の辛さを申し上げる。とりとめもなくしゃべり続けるのも、「心労は同じことだ。何の身分の上下に関係あろうか」と、しみじみと御覧になる。御衣類をお与えさせになると、生きていた甲斐があると思うのだった。幾頭ものお馬を近くに繋いで、向こうに見える倉か何かにある稲を取り出して食べさせているのを、珍しく御覧になる。
 「飛鳥井」を少し歌って、数月来のお話を、泣いたり笑ったりして、
「若君が何ともご存知なくいらっしゃる悲しさを、大臣が明け暮れにつけてお嘆きになっている」などとお話になると、たまらなくお思いになった。

お話し尽すことができないので、かえってその様の一部も伝えられない。
 一晩中まどろむこともなしに、詩文を作って夜をお明かしになる。


《突然に頭中将の訪れが語られます。彼も、左大臣の息子故に、源氏が都にいた間は冷遇されていたのでしたが、問題の源氏が離京してからは、右大臣の四の君を妻にしているからなのでしょうが、「人柄もとてもよい」こともあって、「「宰相に昇任して、…世間の信頼も厚くていらっしゃった」のでした。

 この人は、愛嬌といくらかの男気とフットワークとをバランスよく備えた実務型の人のようです。帚木の巻や絵合の巻では源氏に対して子供じみたライバル心を見せたこともありましたが、それも愛嬌の内で、女性関係でも源氏のように危ない橋を渡るようなことはなく、穏便な範囲で、しかしぬかりなく振る舞っているようですし、また時には、賢木の巻(第六章第二段)にもあったように、こうして右大臣方の目を無視して源氏を慰めにやって来ます。

あるいは、それが知れても大目に見させるようなところがある人とも言えます。

しかし、そうは言っても恐らく居心地の悪いことは避けられず、「世の中がしみじみつまらなく」思われることも多かったのでしょう、「『罪に当たるようなことがあろうともかまうものか』とお考えになって、急にお訪ねにな」ったのでした。

こうして彼の登場は、間接的に、都の右大臣方の勢いが安定して来ている情勢をそれとなく伝え、逆に追いやられた源氏の立場を改めて明らかにしています。

中将の目に写る源氏の暮らしは質素な中に興趣豊かなものでした。

捧げものを持ってきた土地の海人が「いろいろと容易でない身の辛さを…とりとめもなくしゃべり続ける(原文・さまざま安げなき身の憂へを…そこはかとなくさへづる)」話を聞くのも珍しい経験で、「『心労は同じことだ。何の身分の上下に関係あろうか』と、しみじみと御覧になる」のでした。

源氏は、夕顔の巻で女の家に泊まった朝、隣の家から聞こえる庶民の切ない暮らしを嘆く話し声を煩わしく思いながら聞いたことがありました(第四章第二段2節)が、あの時と違ってここでは、それぞれに悲哀を味わって来ているだけに、たいへんに同情的です。

源氏にこういう下々の者の思いに共感するという感性を与えているという点は、注目の必要があるでしょう。作者自身、二十歳前後の頃に父に従って越前に下ったことがあるようで、そのころの見聞がもとになったエピソードかも知れません。

ただ、源氏にとってこうしたことが経験となって、後に彼の人格を形成していくといった、近代文学なら当然考えられる流れには残念ながらなっていません。源氏の人格は既に完成されているのです。

二人はその夜、歌を楽しみ、源氏の若君の消息を語り、詩を交わして、せめてもの一夜を過ごしたのでした。》

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