【現代語訳】1

 須磨では、年も改まって日が長くなりすることもなく、植えた若木の桜がちらほらと咲き出して空模様もうららかで、さまざまなことが思い出されなさって、ふとお泣きになる時が多くあった。
 二月二十日過ぎ、去年京を離れた時、気の毒に思えた人たちのご様子などがたいそう恋しく、「南殿の桜は盛りになっていることだろう」、先年の花の宴の折に、院の御様子や主上がたいそう美しく優美に、わたしの作った句を朗誦なさったのも、お思い出し申される。
「 いつとなく大宮人の恋しきに桜かざしし今日も来にけり

(いつと限らず大宮人が恋しく思われるのに、桜をかざして遊んだその日がまたやっ

て来た)」

 

《すぐ隣村のような明石で入道がそういうことを考えているとは知らないままに、源氏は須磨で、所在ない新年を迎えます。

秋の柴を焚く煙、冬の月夜の雪がそうだったように、相変わらず見るもの全てが涙の種で、春もまた彼にものを思わせます。大伴家持に

  うらうらに照れる春日に雲雀上がり心かなしもひとりし思へば

の名吟がありますが、この時の源氏の思いはもう少し具体的な傷みを伴っていたことでしょう。

二月二十日と言えば、七年前には「花の宴」の催された日で、あの時が源氏のこれまでの人生で絶頂の時だった、と思い返されます。

宮中では今年も多くの人々が着飾って花を楽しんでいることだろうが、自分はただ恋しい人々を遠く思い出す以外になにもできないまま、僻遠の地にやるせない日を過ごしているだけだというつらい思いがつのります。

「南殿の桜は~お思い出し申される」の部分は、変な訳文になっていますが、原文が、このように直接話法の心中語から、客観表現に直に繋げて書かれていて、この物語中に時々見られる書き方です。

普通に考えれば、乱れた文章ということになるのですが、原文で読むと、流れるような文章と思えないことはありません。訳す時には困りますが、多分、あまり文法論的に合理的に考えない方がいいところだろうという気がします。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ