【現代語訳】

 尚侍の君は、世間の物笑いになってひどく沈みこんでおられたのだが、大臣がたいそうかわいがっていらっしゃる姫君なので、無理やり、大后にも帝にもお許しを奏上なさったところ、定めのある女御や御息所でもいらっしゃらず、ただ公的な御用を勤める宮仕え人だからとお考え直しになり、またあの出来事の憎らしさゆえに厳しい処置もなされたのだが、赦されなさって参内なさることになるにつけても、やはり心に深く染み込んだお方のことが、しみじみと恋しく思われなさるのであった。
 七月になって参内なさる。格別であった御寵愛が今に続いているので、他人の悪口などお気になさらず、いつものようにお側にずっと伺候させあそばして、いろいろと恨み言を言い、一方では愛情深く将来をお約束あそばす。
 お姿も顔もとてもお優しく美しいのだが、思い出されることばかり多いそのお心のうちは、恐れ多いことである。管弦の御遊の折に、
「あの人がいないのが、とても淋しいね。どんなに私以上にそのように思っている人が多いことであろう。何事につけても、光のない心地がするね」と仰せになって、

「院がお考えになり仰せになったお心に背いてしまったことだ。きっと罰を得るだろう」
と言って、涙ぐみあそばすので、涙をお堪えきれになれない。
「世の中は、生きていてもつまらないものだと思い知られて、長生きをしようなどとは、少しも思わない。もしそうなった時には、どのようにお思いになるだろう。最近のお別れよりも軽く思われるのが、悔しいことだ。『生ける世に』というのは、ほんとうに心得のない人が詠み残したのであろう」と、とても優しい御様子で、何事も本当にしみじみとお考え入って仰せになるのにつけて、ぽろぽろと涙がこぼれ出ると、
「それごらん。誰のために流すのだろうか」と仰せになる。
「今までお子がいないのが、物足りないね。東宮を故院の仰せどおりに思っているが、良くない事柄が出てくるようなので、お気の毒で」などと、治世をお心向きとは違って取り仕切る人々がいても、お若くて、強いことの言えないお年頃なので、困ったことだとお思いあそばすことも多いのであった。

 

《尚侍の君は、あの事件以来参内していなかったようです。さすがに世間の噂にも上って具合が悪く、また処分としても参内差し止めになっていたのでした。

 源氏が自ら謹慎したことで、それならばと、許されて参内することになったのですが、許されたとなると、それまで「ひどく沈みこんでおられた」のがすぐさま一転して、「やはり心に深く染み込んだお方のことが、しみじみと恋しく思われなさるのであった」というのは、何とも身軽な女性ではあります。しかし、確かにこういう気持の動きは誰にでもいくらかはありそうですし、したがってそれが普通の感覚であるような人もまた、現代的と言われて、いつの世にも実在しそうです。

さて、参内です。これまでもこの帝(朱雀帝)の源氏に対する言動には理解しがたいいくつかのことがありましたが、ここはその中でも特にそう感じられます。

自分の恋する人が別の男に心を奪われていることを承知しながら、なおかつ愛してしまうといった関係は、世間ではいくらでもあることですが、その相手に向かって、「あの人がいないのが、とても淋しいね。どんなに私以上にそのように思っている人が多いことであろう。何事につけても、光のない心地がするね」などと語る人がいるでしょうか。

 「誰のために(涙を)流すのだろうか」と口にされるような源氏に対するコンプレックスも同様で、作者としては、帝をいかにも物の分かった人として描き、あわせて源氏の素晴らしさを改めて語ったということなのでしょうが、不謹慎な例えで気が引けますが、どうも帝の様子が負け犬のおもねりといったみじめな姿に思われてなりません。
 また、後段の「東宮を故院の仰せどおりに思っているが、良くない事柄が出てくるようなので」は、故院の遺言(賢木の巻第二章第四段2節)に従って東宮を養子にしたいのだが、弘徽殿方との間にトラブルが生じることを案じて、実現しないことを言っていて、
その原因を作者は、「お若くて、強いことの言えないお年頃」だからと、すべてを母・弘徽殿のせいにしたいような口ぶりですが、帝自身の問題も小さくないでしょう。
 「病める朱雀帝」(三谷邦明著)(『人物論集』所収)が言うように「光源氏に拮抗すべき登場人物」として、それに相応しい強さのある人として描かれていたなら、この物語は今ある以上に幅広くたくましいドラマとなったのではないか、ということは十分に考えられることです。

しかし作者はそういうことは考えていませんでした。やはりこの物語は、基本的に女性を描く物語として構想されたのでしょう。もしこの帝をそのような人物として描き始めたら、もっともっと長大なものになったでしょうし、もっと多くの男性が登場したでしょうし、従ってこれほど多くの女性を描く機会もなかったのではないか、などと夢想してしまいます。》

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