【現代語訳】3
入道の宮におかれても、春宮の将来のことでお嘆きになるご様子はいうまでもない。御宿縁をお考えになると、どうして並大抵のお気持ちでいられようか。これまではただ世間の評判が憚られたので、少しでも同情の素振りを見せたら、それにつけても誰か咎めだてすることがあったら困るとばかり一途に堪え忍び忍んで、源氏のご愛情をも多く知らないふりをして、そっけない態度をなさっていたが、これほどまでにつらい世の人の口ではあるが、あの方のお心寄せも少しも噂されることなく終わったのは、一途であった恋慕の情の赴くままにまかせるのではなく、一方で目立たぬように隠したのだと、しみじみと恋しく、どうしてお思い出しになれずにいられようか。
お返事も、いつもより情愛こまやかに、
「このごろは、ますます、
塩垂るることをやくにて松島に歳ふる海士もなげきをぞつむ
(涙に濡れるのを仕事として、出家したわたしも嘆きを積み重ねています)」
尚侍の君のお返事には、
「 浦にたく海士だにつつむ恋なればくゆるけぶりよ行くかたぞなき
(須磨の浦の海人でさえ人には隠す恋の火ですから、人目多い都にいる私の思いはく
すぶり続けて晴れようがありません)
今さら言うまでもないことの数々は、とても書くことなど」
とだけ、わずかに書いて、中納言の君の手紙の中にある。お嘆きのご様子などがたくさん書かれてあった。
いとしくお思い申されるところどころがあって、ついお泣きになってしまうのだった。
《紫の上に次いで藤壺と朧月夜の尚侍の君の思いが語られます。
藤壺の思いは複雑です。何よりもまず「春宮の将来のことでお嘆きになる」のでしたが、ということは、彼女にとって源氏は、すでに恋する人ではなく、母としての、息子の将来を守ってくれなければならない人である源氏への思いです。
そうして「御宿縁をお考えになる」と続きます。これを『集成』は「(子までなした)因縁の深さをお考えになると」と言っていますが、それだけでは少しもの足りません。
この「宿縁」は、「これまでは」から始まって「無難に隠したのだ」までによって説明されていると考えたいところです。
つまり、自分が長い年月恋しい思いを堪え忍ばねばならなかったこと、その期間をかろうじて人の口に上せることなく無事に越えてくることができたこと、そうした長く険しい閲歴を経て、いまかろうじて東宮の地位があり、それを世を憚らねばならなくなった自分たち二人が守らねばならないことになっているという、長く数奇な道のりへの感慨と読みたいと思います。
途中、「あの方のお心寄せも」以下(原文「このかたには言ひ出づることなくて止みぬるばかりの人の御おもむけも、あながちなりし心の引くかたにまかせず、かつはめやすくもて隠しつるぞかし」)の意味が取りにくく思われます。
諸注は「もて隠しつる」の主体を源氏としていますが、「まかせず」とともに敬語がないところからここでは藤壺として、「そっけない態度をなさっていた」ことの自分での説明と考えてこのように訳しました。
そのように必死に自分の気持ちを抑えてきた分だけ、別れた今になっていっそう恋しさが募る、というのも理解できる心情と言えるのではないでしょうか。
返事が原文では「すこしこまやかにて」だったとありますが、この「すこし」は、訳のように「いつもよりよけいに」の意味でしょう。自然、歌も率直なものになります。
尚侍の君の返事は、侍女の手紙の中に入っています。その侍女の返事の文面に、君の「お嘆きのご様子などがたくさん書かれてあった」のでした。当然ながら見事な侍女の心配りです。》