【現代語訳】2

 道中、面影となってありありと浮かんで離れず、胸もいっぱいのまま、お船にお乗りになった。日の長いころなので、追い風までも加わってまだ午後四時のころに、あの須磨の浦にお着きになった。かりそめのお出ましでもこうした旅路をご経験のないお心には、心細さも物珍しさも並大抵ではない。大江殿と言った所はひどく荒れて、松の木だけが跡をとどめている。
「 唐国に名を残しける人よりもゆくへ知られぬ家居をやせむ

(唐国で名を残した人以上に行方も知らない侘住まいをするのだろうか)」
 渚に打ち寄せる波の寄せては返すのを御覧になって、「うらやましくも(返っていく波が羨ましいことだ)」と口ずさみなさっているご様子は、誰でも知っている古歌であるが、耳新しく聞かれて、ただただ悲しいことだとお供の人々は思っている。

振り返って御覧になると、来た方角の山は霞が遠くにかかって、まことに「三千里の外」という心地がすると、「櫂の滴(涙)」も堪えきれない。
「 故里を峰の霞は隔つれどながむる空はおなじ雲居か

(住みなれた都を峰の霞は遠く隔てるが、悲しい気持ちで眺めている空は都の人が見

るのと同じ空なのだろうか)」
 何ひとつ胸に迫らぬものはないのだった。

 

《月の光に照らされた紫の上の顔や姿をまぶたに思い浮かべながらの道中で、港に行き着けば、生まれて初めての遠い船出ですが、ここでも、離京の時と同じようにまず須磨到着を語っておいてから、その前の道中の話です。

『評釈』は、淀川を舟で下って「京から難波までが、当時は一日の行程」と言い、翌日の夕方前に着いたものと言っています。

そして、作者も当時の読者も須磨への道中などしたことはあるまいとして、「作者は歌と歌枕で道行きを書く。これは読者に理解され、共感される。ともに住む芸術の世界であるから。」と、言います。

「唐国に名を残しける人」は屈原ではないか、とされ、心ならずも都を追われて放浪する姿に自分をなぞらえます。

「うらやましくも」は、業平の歌で、『伊勢物語』七段、「京にありわびて、東にいきける」ときに詠まれたもの。まさしく源氏そのものです。

「三千里の外」は白楽天。「三千里の外遠行の人、…冷枕単床一病身」と続く詩です。

そして「櫂の滴」は、ふたたび業平です。

こうした不遇の人を重ね合わることによって、作者も読者も見たこともない須磨という最果ての地にある源氏の不幸な姿を描き挙げているわけです。》


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