【現代語訳】

 あの目的の邸は、ご想像なさっていた以上に人影もなくて、ひっそりとお暮らしになっている様子を御覧になるにつけても、まことにおいたわしい。

まず女御のお部屋で昔のお話などを申し上げなさっているうちに、夜も更けてしまった。二十日の月が差し昇るころに、高い木の蔭になって一面にいっそう暗く見えて、近くの橘の薫りがやさしく匂い、女御のご様子は、お年を召しているが、どこまでも深い心づかいがあり、気品があって愛らしげでいらっしゃる。
「格別目立つような御寵愛こそなかったが、仲睦まじく親しみの持てる方とお思いでいらっしゃったが」などと、お思い出し申し上げなさるにつけても、昔のことが次から次へと思い出されて、ふとお泣きになる。
 ほととぎすが、先程の垣根のであろうか、同じ声で鳴く。「自分の後を慕って追って来たのだな」と思っていらっしゃるのも、優美である。「いかに知りてか(昔話をしていることをどうして知ってか)」などと、小声で口ずさみなさる。
「 橘の香をなつかしみ郭公花散る里を訪ねてぞとふ

(昔を思い出させる橘の香を懐かしく思って、ほととぎすが花の散ったこのお邸にや

って来ました)
 昔の忘れられない心の慰めには、やはりこちらに伺うべきでした。この上なく物思いの紛れることも、また増すこともございました。人は時流に従うものですから、昔話も語り合える人が少なくなって行くのを、私以上に所在なさも紛れることがなくお思いでしょう」と申し上げなさると、まことに言うまでもないこの頃の世情であるが、物をしみじみとお思い続けていらっしゃる女御のご様子が一通りでないのも、お人柄からであろうか、ひとしお哀れが感じられるのであった。
「 人目なく荒れたる宿は橘の花こそ軒のつまとなりけれ

(訪れる人もなく荒れてしまった住まいには、軒端の橘だけがお誘いするよすがにな

ってしまいました)」
とだけおっしゃるが、「やはり、他の女性とは違ってすぐれているな」と、ついお思い比べられる。

 

《まずは姉君の女御にご対面です。院の崩御から一年半、早くももうこの人は世の中から忘れ去られようとしている様子でした。

「(五月)二十日の月が差し昇るころに、高い木の蔭になって一面にいっそう暗く見えて」は、単に情景の説明のようですが、もちろん、「人影もなくて、ひっそりとお暮らしになっている」という彼女の境遇と、「どこまでも深い心づかいがあり」という人柄とをそれとなく感じさせて、昔を思い出させるという橘の香りがやさしく漂っていることと併せて、読者はこの女御の慎ましいゆかしさを思い遣ることができます。

さればこそ源氏も「昔の忘れられない心の慰めには、やはりこちらに伺うべきでした」という思いになり、歌を詠みます。

その歌は、自分をほととぎすになぞらえて、橘の花は散っても(すでに華やかな立場をお離れになっても)、ほととぎすは訪ねてきます、とこの方の魅力を詠み、私はそういうところに昔話をしにやって来ました、と言っているわけです。

そして巻の名前もこの歌によるのですが、これによってこの家が「花散る里」と呼ばれ、この女御の妹宮を、そこに住む姫君という意味でそのまま花散里と呼び習わし、この後度々登場して、比較的大きな役割を受け持つことになります。

「昔話も語り合える人が少なくなって行く」というのは、二十五歳の人が言う言葉には相応しくありませんが、源氏の老成したような物言いは昔からのもので、それに実際今の世の様変わりは彼にそういうことを思わせても、それほど不思議ではないでしょう。

女御の歌も、前の人柄を思い描いて読むと、何か、いかにもその人らしい歌という気がします。》

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