【現代語訳】1
 司召のころ、この宮側の人々は当然賜るはずの官職も得られず、世間一般の道理から考えても、中宮の御給でも必ずあるはずの加階などさえなかったりして、嘆いている者がたいそう多かった。このように出家しても、直ちに位を去り、御封などが停止されるはずもないのに、出家にかこつけて変わることが多かった。すべて既にお捨てになった世の中であるが、仕えている人々も頼りなげに悲しいと思っている様子を見るにつけて、お気持ちの納まらない時々もあるが、

「自分の身を犠牲にしてでも、東宮の御即位が無事にお遂げあそばされるなら」とだけお考えになっては、御勤行を余念なくお勤めあそばす。
 人知れず危険で不吉にお思い申し上げあそばす事があるので、「私に免じてその罪障を軽くして、お宥しください」と、仏をお念じ申し上げることによって、万事をお慰めになる。
 大将も、そのように拝見なさって、ごもっともであるとお考えになる。この殿の人々もまた同様に、辛いことばかりあるので、世の中を面白くなくお思いになって退き籠もっていらっしゃる。
 左大臣も、公私ともに変わった世の中の情勢につらくお思いになって、辞職を申し出られるのを、帝は、故院が重大な重々しい御後見役とお考えになって、いつまでも国家の柱石にと申された御遺言をお考えになると、見捨てにくい方とお思い申していらっしゃるので、無意味なことだと何度もお許しあそばさないが、無理に御返上申されて退き籠もっておしまいになった。
 今では、ますます一族だけがいやが上にもお栄えになることこの上ない。世の重鎮でいらっしゃった大臣が、このように政界をお退きになったので、帝も心細くお思いあそばし、世の中の人も良識のある人は皆嘆くのであった。

 

《年が明けると官吏任命の公事がありますが、中宮方の人には何の官も与えられませんでした。もちろん右大臣方の圧迫です。

右大臣は今や帝の外戚として、権勢を思うままに振るうことができるのです。

彼らからすれば、先帝の時代、一の皇子を擁していたにもかかわらず、桐壺の更衣、その子の源氏、そして藤壺中宮に、長い間寵愛を奪われていたうらみを晴らすことができる時節が、やっと到来したわけです。

藤壺は不遇に喘ぐことになった家司たちを気の毒に思いながら、ひたすら「東宮の御即位が無事にお遂げあそばされる」時までは堪えようと、勤行に耽ります。

動く力もないままに下手に動いて、「人知れず危うく不吉にお思い申し上げあそばすこと」、つまり東宮が実は帝の皇子ではないことが露見するようなことになったら、それこそ一大事なのです。

 源氏はまた、弘徽殿大后から、息子の仇とばかりに思われ続けてきたのですから、状況は同じです。

さらにその事情は左大臣家も同様で、朝政の全てが右大臣に傾く中、「辞職を申し出られる(原文・致仕の表たてまつりたまふ)」しかなくなります。わずかな気持の救いは帝の信頼の篤いことで、「帝も心細くお思いあそばし、世の中の人も良識のある人は皆嘆」いてくれることですが、しかし、帝自身はそう思っても、両親に強く異を唱えられるような方ではなく、また「良識のある人」は、いつの時代でもえてして力を持っていない場合が多いもので、結局大殿は「つらくお思いになって(原文・もの憂くおぼして)」、帝の慰留を辞退して、その職を辞するしかなくなってしまいます。

『評釈』が、「『桐壺』の巻で、東宮(すなわち今の主上)からのお求めに応ぜず、その姫(葵の上)を源氏に与えてから、左大臣は権勢を独占した。…そのころ、右大臣方は…うらみを呑んだことであろう。雌伏実に十三年、今、左大臣方を見返したのである」と言います。》

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