【現代語訳】2

 宮は、お里の三条の宮にお渡りになる。お迎えに兵部卿宮が参上なさった。雪がひとしきり降り風が激しく吹いて、院の中がだんだんと人数少なになっていってしんみりとしていた時に、大将殿がこちらに参上なさって、昔の思い出をお話し申し上げなさる。お庭先の五葉の松が、雪に萎れて、下葉が枯れているのを御覧になって、親王が、
「 蔭ひろみ頼みし松や枯れにけむ下葉散りゆく年の暮れかな

(木蔭が広いので頼りにしていた松の木は枯れてしまったのだろうか、下葉が散り行

く今年の暮ですね)」
 何という歌でもないが、折柄、何となく寂しい気持ちに駆られて、大将のお袖がひどく濡れた。池が隙間なく凍っていたので、
「 さえわたる池の鏡のさやけきに見なれしかげを見ぬぞかなしき

(氷の張りつめた池は鏡のようになっているが、長年見慣れたお姿を見られないのが

悲しいことです)」
と、お気持ちのままに詠まれたのは、あまりに子供っぽい詠み方ではないか。王命婦が、
「 年暮れて岩井の水もこほりとぢ見し人かげのあせもゆくかな

(年が暮れて岩井の水も凍りついて、見慣れていた人影も見えなくなってゆきますこ

と)」
 その折に、とても多くあったが、そうみな書き連ねてよいことか。
 お移りになる儀式は、人と変わらないが、思いなしかしみじみとして、ふる里の宮邸は、かえって旅の宿のような心地がなさるにつけても、里下りなさらなかった歳月の長さを、さまざまに思い巡らされることだろう。


《最後にひとり残ったのでしょうか、藤壺がいよいよ里下がりの日です。里から兄の兵部卿宮(若紫の父)が迎えに来て、それを知った源氏が挨拶に来て、思い出話とともに、皆で歌を詠み交わします。

源氏の歌を「あまりに子供っぽい詠み方」と評したのは、読者より先にそういうことによって、あるかも知れない批判をあらかじめ封じておこうという気持でしょうが、かと言って、こういう場合、源氏の歌を載せないわけにはいきません。

藤壺も詠むべきところですが、書かれてありません。「中宮の歌は大将のそれよりも難しい。それゆえここに紹介するのを(作者が)さけたのである」と『評釈』は言いますが、とても詠む気持ちになれなかったのかも知れません。院に対してふたりで一つの罪を犯したのですが、やはりこの三人の場合、息子よりも妻の方がより深い傷みを持っているに違いないのですから。

「その折に、(歌は)とても多くあったが」という中で、ただ一人詠まないままになった彼女の気持ちを、読者は思いやった方がいいような気もします。もっとも、こういうときにこそ詠めないようでは、当時の一流の宮廷人とは言えないのかも知れませんが。

兵部卿の宮邸に下がった藤壺が「かえって旅の宿のような心地」がしたというのも、心に残る言葉です。ここは久しく宮中に居続けていたことからの感慨ではありますが、源氏は、葵の上が亡くなった時には二条院に帰ることができたことを思うと、気がついてみれば、女性にとって安住の地はなかなか難しいものだ、というようなことを思わせもします。》

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