源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第二段 小君、小野山荘の浮舟を訪問

【現代語訳】

 不思議に思うが、

「これこそは、それでは、はっきりしたお手紙であろう」と思って、
「こちらに」と言わせると、とても小ぎれいで上品な童で、えも言えず着飾った者が歩いて来た。円座を差し出すと、簾の側に跪いて、
「このような形で扱いを受けることはないと、僧都はおっしゃっていました」と言うので、尼君がお返事などなさる。手紙を中に受け取って見ると、
「入道の姫君の御方へ、山から」とあって、署名なさっていた。人違いだ、などと否定することもできない。
 とても体裁悪く思えて、ますます奥に身を縮める思いで、誰にも顔を見せない。
「いつも控え目でいらっしゃる人柄だが、とても情けない、困ったことです」などと言って、僧都の手紙を見ると、
「今朝、こちらに大将殿がおいでになって、ご事情をお尋ねになるので、初めからの有様を詳しく申し上げました。ご愛情の深かった間柄に背をおむけになって、賤しい山家の中で出家なさったことは、かえって仏のお叱りが加わるに違いないはずのことだと、お話をうかがって驚いています。
 しようがありません。もともとのご宿縁をお間違えなさらず、愛執の罪をお晴らし申し上げなさって、一日の出家の功徳は無量のものですから、やはりおすがりなさいませと。細かいことは、拙僧自身お目にかかって申し上げましょう。とりあえず、この小君が申し上げなさることでしょう」と書いてあった。

 

《先ほど僧都から手紙が届いたばかりというのに、また誰やら僧都の手紙を持って来たというので、尼君は「不思議に思」いながら、一方、先ほどの手紙が意味の分からないものだったので、これが、その謎を解いてくれるのかも知れないと、使いの者を通すように言いました。

 やって来たのは「とても小ぎれいで上品な」子供で、立派な様子をしていました。『評釈』が「薫の目から見ると『他の兄弟たちよりは、器量もよく見える』(第一章第四段)に過ぎないのだが、こうまでなるのである」と言います。

 「円座を差し出」したのは、簀子へ、で、小君は一人前に、その扱いに、中に入れてほしいと恨み言を言います。「女を訪うと、男はよくこういう」(『評釈』)のですが、この子は、それを心得た、いささかませた子であるようです。

 尼君は、おやおや、なかなかのことを言う子だこととでも思ったのでしょう、様子が分からないまま、自分で対応します。「普通の訪問者なら、女房が中に入るもの」(同)なのだそうで、様子のいい童に言われて、本当に由緒ある子かも知れないと思ったからでしょうか、僧都の使いという触れ込みだからでしょうか、立派な身なりだからでしょうか、やはり特別扱いです。

 手紙を受け取って浮舟に見せますが、彼女は先ほどの僧都からの手紙以来、自分が話題の中心に据えられて、触れられたくない過去と向き合わされようとしている怖れに、身を縮めていたところですから、ますます臆して、ただもう顔を背けるようにしているばかりですから、尼君が引き取って、開きます。

 「一日の出家の功徳は無量のものですから、やはりおすがりなさいませ」とは、読者には、大将殿のような方からの思し召しがあるのなら、たとえ出家の期間が一日でも功徳があるのだから、その功徳に「おすがり」して、還俗して「もともとのご宿縁」を大事にされるがよい、ということ、と知れて、僧都の考えは明らかですが、しかし、尼君が読んでも、今朝の僧手紙と変わらない話でよく分からない上に、「大将殿」とあり、「ご愛情の深かった間柄」、「愛執の罪」とかあって、ただ事でない話のようです。

委細はこの小君が話すだろうと、書かれているのでした。》

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第一段 薫、浮舟のもとに小君を遣わす

【現代語訳】

 あの殿は、

「この子をそのまま遣わそう」とお思いになったが、人目が多くて具合が悪いので、邸にお帰りになって、翌日、改めてお遣わしになる。親しくお思いになる人で、大した身分でない者を二、三人付けて、昔もいつも使者としていた随身をお加えになった。人が聞いていない間にお呼び寄せになって、
「そなたの亡くなった姉の顔は、覚えているか。今はこの世にいない人と諦めていたが、まことに確かに生きていらっしゃるということだ。他人には聞かせまいと思うので、行って確かめよ。母にははっきりしないから言ってはならない。かえって驚いて大騒ぎするうちに、知ってはならない人まで知ってしまおう。その母親のお嘆きがいたわしいので、このようにして確かめるのだ」と、今からもう厳しくに口封じなさるのを、子供心にも、姉弟は多いが、この姉君の器量を他に似る者がないと心に焼き付いていたので、お亡くなりになったと聞いてとても悲しいと思い続けていたが、このようにおっしゃるので、嬉しいにつけても涙が落ちるのを、恥ずかしいと思って、
「はい、はい」とぶっきらぼうに申し上げた
 あちらでは、まだ早朝に、僧都の御もとから、
「昨夜、大将殿のお使いで、小君が参られたでしょうか。事情をお聞き致しまして、困ったことで、かえって悪いことをしたという気がしておりますと、姫君に申し上げてください。拙僧自身で申し上げなければならないことも多いが、今日明日が過ぎてから伺いましょう」と書いていらっしゃった。

「これはどういうことか」と尼君は驚いて、こちらに持って来てお見せ申し上げなさると、顔が赤くなって、

「自分のことが知られたのではないか」とつらく、

「隠し事をしていた」と恨まれることを思い続けると、答えようもなくてじっとしていらっしゃるので、
「やはり、おっしゃってください。情けなく他人行儀ですこと」とひどく恨んで、事情を知らないので、慌てるばかりの騷ぎのところに、
「山から、僧都のお手紙といって、参った人があります」と申し入れた。

 

《薫は、実は帰りに童(この段で僧都が「小君」と呼んでいますので、以下、そう呼ぶことにします)を浮舟のもとに行かせようかとも考えたようですが、何せ大勢の従者たちがいて目につくので、その日はそのまま京に帰り、翌日、信頼できる数人の者だけを付けて、改めて行かせることにしたのでした。

 出立の前にその小君を呼んで、いろいろな思惑を背景に、子供にとってはなかなか難しそうないくつかの心得を、こんこんと言い含めます。

 彼は「子供心にも」、大変大切な、しかも憧れだった義姉に会える嬉しいお役目とあって、大いに名誉と考えたのでしょう、緊張のあまり、実に子供らしい反応で、いい感じです。さりげなく書かれていますが、「ぶっきらぼうに申し上げた」ところなど、実にありそうな感じに生き生きと描かれていて、この作者は子供を描くのが本当にうまいという気がします(横笛の巻第三章第一段)。

さて、薫がそういう手はずを整えているころ、薫よりいち早く、早朝、僧都が尼君のところに手紙を送ったのでした。彼としては、薫が帰りに立ち寄ったものと思ってのことのようで、薫と浮舟のいきさつを尼君と浮舟が知っているという前提で書いたものですから、「事情をお聞き致しまして」と言われても、尼君には何の話かまるで分かりません。しかもそこには「大将殿」まで絡んだことであることが示されています。

 尼君は驚いて浮舟の所に来て僧都の手紙を見せます。

 浮舟は、「大将殿」という言葉ありましたから、昨夜の松明の一行のことと思い合わされて、薫がお山に来たに違いなく、自分のことが知られねばいいがと心配していたことが現実のなったのだと悟りました。併せて、尼君に大きな隠し事をしてたことを恨まれると思うと、あちこちに心は乱れて、顔を赤らめるばかりで、言うべき言葉も口に出ません。

その様子に尼君は、これはどうやら間違いなく大変なことがあるようだと思うと、こちらは心配でならず、浮舟に包み隠さず話すように責めます。

向き合った二人が「慌てるばかりの騷ぎのところに」、外から、問題の僧都の手紙を持った人が訪ねて来たと、声がかかりました。

なんともタイムリーで、様々なことがこの一点に集中してくる感じで、物語の大詰めが思われます。》

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第五段 浮舟、薫らの帰りを見る

【現代語訳】

「この子に託して、とりあえず少しお伝えください」と申し上げなさると、手紙を書いてお与えなさる
「時々は山においでになって遊んで行きなさいね。縁のないことのようにお思いになってはならないわけもあるのです」と、お話しなさる。

この子は理解できないが、手紙を受け取ってお供して出る。

坂本になると、ご前駆の人びとがそれぞれ少し離れて、

「目立たないように」とおっしゃる。

 小野では、たいそう青々と茂っている青葉の山に向かって、気の紛れることなく、遣水の螢だけを昔が偲ばれる慰めとして眺めていらっしゃると、いつものように遥か遠くに谷の見やられる軒端から、前駆が格別の先払いをしてたいそうたくさん灯している火の揺れ動く光が見えるといって、尼君たちも端に出て座る。
「どなたがおいでになるのだろう。ご前駆などもとても大勢に見える」
「昼、あちらに引干しを差し上げた返事に、『大将殿がいらっしゃって、ご饗応の事が急になったので、ちょうどよい時であった』と、言ったが」
「大将殿とは、今上の女二の宮の夫君のことでいらっしゃろうか」などと言うのも、とてもこの世離れして、田舎じみていることよ。

ほんとうにそうなのであろうか、時々、このような山路を分けていらしたとき、はっきりその人と聞き分けられた随身の声も、ふと中に混じって聞こえる。
 月日の過ぎ行くままに、昔のことがこのように忘れられないでいるのも、

「今さらどうなることでもない」とつらい気持ちになるので、阿弥陀仏に思いを紛らわして、ますます無口になっている。横川に行き来する人だけが、この近辺では身近な人なのであった。

 

《僧都が童を誉めたのを聞いて、もう今日は仕方がないと帰ろうとしていた薫が、すかさず「この子に託して…」と最後の一押しをします。

すると、何と、僧都は、急転直下、あっさり手紙を書いてくれたのでした。

一体何があったのでしょうか。「申し上げなさると」と「手紙を書いてお与えなさる」の間に何の説明もないのが不思議です。この子に手紙を託すというアイディアが、どうしてこれほどに彼の気持ちを変えたのか、よく分かりません。

僧都は手紙を渡して、童にやさしく語りかけます。この子は、とっくに、薫が改めて語り始める最初(前段冒頭)にすでに僧都に「この子が、あの女人の近親なのですが…」と紹介しているのですが、その時には僧都にはなんの反応もありませんでした。それを、今ことさらにこういうふうに書かれると、どうしたのだろうと思ってしまいます。『評釈』も戸惑ったふうに「この子をものにしたい気でもあるのか」と言いますが、まさか…。

しかしそんなことまで考えさせるくらいに、やはりどうも、何か変です。

が、それは読者の方の話で、薫にとっては手紙さえ書いてもらえばいいわけです。彼はそれを童に持たせて、小野の里に下って行きました。

もう日も暮れて、一行の松明の灯りが揺れながら通って行きます(次の段で、薫は今日は寄らないで帰るのだということが分かります)。

庵では何ごとかとみんなが端近に出てざわめきます。

そう言えば、今日昼にお山に薫大将様がおいでだったそうですから、あの方のお通りなのでは…、という話を聞いて浮舟の胸はどきりとしました。

そうするうちに次第に近づいてくると、なんとその中に、宇治で聞き知った薫の随身の声が聞こえるではありませんか。彼女は思わず違っていてほしいと(いや、そうであってほしいと思わなかったでしょうか)、「阿弥陀仏」を唱えて、身を縮めます。

この道を通る人は、横川へ往来する人以外にはないのです、と作者は念を押します。もう薫の一行に間違いないという意味なのでしょう。そんなことは読者には分かったことですが、ここは浮舟の気持を言っているのであって、原文では「なむ…ける」の強意と「気付き」の表現が、彼女の驚きを表現しています。》

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