源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第一段 父帝と母桐壺更衣の物語~その2

【現代語訳】2
 朝晩のお側仕えにつけても、他の妃方の気持ちを不愉快にさせることばかりで、嫉妬を受けることが積もり積もったせいであろうか、とても病気がちになってゆき、何となく心細げに里に下がっていることが多いのを、ますますこの上なく不憫な方とおぼし召されて、人の非難にもおさし控えあそばすことがおできにならず、後世の語り草にもなってしまいそうなお扱いぶりである。

上達部や殿上人なども、困ったことと目をそらしそらしして、とても眩しいほどの御寵愛である。「唐国でも、このようなことが原因となって、国も乱れ、悪くなったのだ」と、しだいに国中でも困ったことだと、人々のもてあましの種となって、楊貴妃の例までも引き合いに出されそうになってゆくので、更衣にとってたいそういたたまれないことが数多くなっていくが、もったいない御愛情の類のないのを頼みとして、宮仕え生活をしていらっしゃる。

 父親の大納言は亡くなって、母親の北の方が古い家柄の人で教養ある人なので、両親とも揃っていて今現在の世間の評判が勢い盛んな方々にもたいしてひけをとらず、どのような事柄の儀式にも対処なさっていたが、これといったしっかりとした後見人がいないので、こと改まった儀式の行われるときには、やはり頼りとする人がなく心細い様子である。



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《そもそも日御子ともあろう人は、少なくとも理念として、それこそ太陽が光と熱の恵みを地上の全てのものにあまねく施すように、愛の満足を人民の全てに、なかんずく多くの妃全てに施すのが本来のあり方であるはずです。一人に愛情を注いだら、それで他への愛が枯渇してしまうようでは、帝王の資格はないでしょう。ところがこの帝は、あろうことか、更衣一人をまさに「偏愛」してしまうのです。

しかし、この帝は愚かな人ではありませんから、それがよくないことは、百も承知なのです。帝は「人の非難にもおさし控えあそばすことがおできにならず(原文・人のそしりをも、え憚らせ給はず)」と文は続きます。

この原文にもし「え」一文字がなかったら、この帝は強力な独裁者、あるいは無神経なワンマンとして描かれたことになるでしょう。それならそれで、一同が諦めて問題は生じなかったかも知れません。

「え」があることによって、帝は憚らねばならないことは解っているのだが、どうしてもそれが出来ないでいた、と作者は言います。そしてこの帝は決して単に情に流されてしまいやすい、だらしない男なのではないと思わせることが、少し後に語られます。

優れた人物が、ふとしたきっかけで避けられない出来事に巻き込まれて、その立場を失う、それが本来の悲劇の基本的な姿なのですが、この帝にはその主人公たる資質があります。

あとは起こってくる出来事が、読者から見てどれほど避けられないものと思えるかと、ということが物語の成否を決めるはずです。

さて、いったん生じたアンバランスは加速度的に大きくなります。帝は、更衣の体調不良とともに宮仕えがおろそかになればなるほど寵愛はつのり、それによって更衣の周囲の嫉妬に彼女が苦しみ、それが自分のせいだと思えばいっそういとおしく、それがまた周囲の嫉妬を増幅することになり…と、負のスパイラルに落ち込んで、宮廷内のストレスは次第に飽和状態に近づいていきます。

更衣は父親が亡くなっていて、しっかりした後見者がいません。ただ更衣の母が、幸いにしっかりした人で、恐らく懸命の心配りをしているのでしょう、何とか宮仕えができているのですが、やはり絶えず不安な気持ちにかられています。

普通に初めて読み始めた読者は、この帝と更衣の二人の愛の物語と思って読むでしょうから、このあたりでは、早くも悲劇的結末によって終わってしまいそうで、一体どう続いていくことかと展開の先をあやぶむことでしょう。》


 

 第一段 父帝と母桐壺更衣の物語~その1

巻一 桐 壺

第一章 光る源氏前史の物語

第一段 父帝と母桐壺更衣の物語

第二段 御子誕生(一歳)

第三段 若宮の御袴着(三歳)

第四段 母御息所の死去

第五段 故御息所の葬送

第二章 父帝悲秋の物語

第一段 父帝悲しみの日々

第二段 靫負命婦の弔問

第三段 命婦帰参

第三章 光る源氏の物語

第一段 若宮参内(四歳)

第二段 読書始め(七歳)

第三段 高麗人の観相、源姓賜わる

第四段 先帝の四宮(藤壺)入内

第五段 源氏、藤壺を思慕

第六段 源氏元服(十二歳)

第七段 源氏、左大臣家の娘と結婚

第八段 源氏、成人の後


【現代語訳】1
 どの帝の御代であったか、女御や更衣が大勢お仕えなさっていたなかに、たいして高貴な身分ではない方で、きわだって御寵愛をあつめていらっしゃる方があった。 最初から自分こそはと気位高くいらっしゃった女御方は、不愉快な者だと見くだしたり嫉んだりなさる。同じ程度の更衣や、その方より下の更衣たちは、いっそう心穏やかでない。



《巻名の桐壺は、ここに登場する更衣の局(部屋)の名によるもので、以下に登場する帝を一般に桐壺帝というのは、固有名詞ではなく、後世の読者がつけたもので、この巻で大きく語られる帝という意味です。

さて、冒頭ですので、全原文を挙げておきます。

「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれてときめき給ふありけり。はじめより我はと思ひ上がりたまへる御かたがた、めざましきものにおとしめ嫉み給ふ。同じほど、それより下臈の更衣たちは、ましてやすからず。」

当時としては普通の言葉遣いなのでしょうが、このように敬語を連ねて書き始められると、やはり荘重な幕開きという感じがします。

当たり前のことですが、この更衣がもし「女御」だったなら、この物語は成立しません。帝の側室の中で最低の地位の人が、最高の寵愛を受けるというアンバランスな設定は、これが、お伽噺ではなく大人の物語である限り、悲劇になるしかないことを予告していると言っていいでしょう。

ところで、物語が始まったと思うと、私たちはいきなり思いがけない人間性の不思議さを突きつけられます。周囲の女御・更衣にとって寵愛をこの更衣に独り占めされたことへの不快は、当の更衣よりも高い身分である女御方の方が、同列から先んじられた更衣たちよりも強いと思うのが普通ではないでしょうか。

しかし、作者はそうは考えず、「同じ程度の更衣や、その方より下の更衣たちは、いっそう心穏やかでない」と言います。会社で、後輩に先んじられるのは許せても、同期入社の者には絶対負けられないという意識が働くというのと似ています。思うに、上の女御方はいかに追い抜かれても、格の違う更衣を陰に陽に見下すことができても、同列の更衣たちはただただ先んじられたというコンプレックスだけが溜まることになる、というようなことなのでしょうか。

そして現代の会社員と違って、彼女たちは一族郎党の命運を担って宮仕えしているという一面もあったでしょうから、思いは半端ではありません。前書きで、この作品は単なる愛のドラマではないと言ったのは、このように、愛の背後にぴたりと「社会」が張り付いているという点から言ったものです。》


 

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前書き

 ご挨拶
                                               

 昨年は、「『徒然草』・人間喜劇つれづれ」を語りました。ご愛読ありがとうございました。

今年は、分不相応にこの大作に向き合ってみようと思い立ちました。どうぞよろしくお願いします。
 かく言う私は、決して源氏物語の専門家などではなく、ただ幾度か通読したことがある一読者にすぎません。が、それでもこの物語は、国宝的傑作として書架を飾らせておくだけでもったいないような気のするお話だという気がします。

それは、貴族社会のただ優雅で甘い愛の物語では決してなく、またもちろん、ある種の映画や漫画で一面的に取り上げられているようなべたべたした愛欲の世界の物語でもありません。

理想の貴公子でスーパーヒーローとされる光源氏にしてから、純粋に二枚目の役を与えられているのではなく、しばしば三枚目を割り当てられて、読者の失笑を避けられません。

作者の目は登場人物に対して思いのほか冷たく、その展開はずいぶんとリアリテイがあって生臭く、十分に社会性を持った、シリアスな、そして時にユーモラスな、つまり普通によくできた物語なのです。そして何よりも、人の心がよく描き出された物語です。

昔、中村光夫氏がどこかで、「スタンダールの『赤と黒』一冊は、ドストエフスキーの全作品に匹敵する」と書かれていた(言われた?)ように思います。

それは、そこに、一つの時代の全体像と、同時にその時を典型的に生きた人間が、総合的・有機的に描かれて、一つの世界を創り上げている、というような意味なのだと思いますが、そうだとすると、我が国では『源氏物語』がまさにそう言えるものではないだろうかと考えて、今年から(今年は、ではありません、何年かかるでしょうか)、この大きな山に向かってみようと思うわけです。

と、とりあえずめいっぱいの大風呂敷を広げておきます。

語るに当たって、教えを受けるべき本は、それこそ無数にあるのでしょうが、手に入りやすいという一点で、下に挙げるわずかな著作を頼りとさせていただきます。

そこに挙げた各書の末尾の括弧の中は、その書を本文中で引用する時の略称です。

中では、『源氏物語評釈』が、帯に「はじめて試みられた新しい形の文学的注釈」とあるだけに確かにおもしろく、また、ともかくこの中では最も詳しいので、鑑賞がやや独創的すぎる点もあるように思われますが、これに添って話を進めていこうと思います。

なお、原文を引用する時は、『日本古典文学集成』本によることとします。

原文は省略して、全文を現代語訳で載せますが、それは「Genjimonogatari Cloud Computing Libraryby Eiichi Shibuya源氏物語の世界」というサイトから転載させていただきます。そこでは全体が短い章段に区切られていて、原文の形とは違っていますが、それもそのまま残しています。

ただし、様々な都合で、後掲の『谷崎』、『集成』、『評釈』を参考に、しばしばその文を変えさせていただきます。

このサイトは、超絶的とも言えそうな大変な労作で、『源氏物語』全巻の本文、ローマ字文、現代語訳文、注釈、翻刻資料(架蔵本、明融臨模本、大島本、自筆奧入)の他に、『源氏物語』関連の様々な研究物が掲載されているという、貴重な資料ですが、作成された渋谷栄一氏の極めて寛大な好意で、「私の作成したテキストに関してはダウンロード及び加工等もご自由です。どうぞご学習やご研究等にお役立てください。知的公共財産として、皆様によって愛されさらに優れたものに進化されることを願っています。」とあって、そのように扱わせていただくことが許されています。

始めるに当たって、渋谷氏のそのご労苦とお志に深く敬意を表し、かつ厚くお礼を申し上げます。

前置きが長くなりました。

なにせ、相手が大物なので、ちょっと力が入ります。

では、今日はともかく最初の一節を見てみることにします。どうぞよろしくお付き合いをお願いします。
                                 安 田 和 彦

         後日記 今浮舟の巻の終わり間近まで来て、この前書きを読み直すと、確かにあまりに「力が 
        入り」すぎていて、気恥ずかしい思いです。
         ありていに言えば、ともかく一応最後まで真面目に面白く読んだ、という自分への
        証し、という程度で抑えておくべきでした。              
         「前書き」も、普通の書籍なら、全巻執筆の後で書かれるものでしょうから、こう
        いう修正もお許しいただけるでしょうか。


参考資料

『源氏物語評釈』 一~一二・別巻二巻 玉上琢彌著 角川書店 (『評釈』)

『日本古典文学集成 源氏物語』一~八 石田穣二・清水好子校注 新潮社(『集成』)

『光る源氏の物語』上・下 大野晋・丸谷才一著 中央公論社(『光る』)

『源氏物語研究叢書Ⅰ 源氏物語の人間研究』 重松信弘著 風間書房 (『研究』)

『源氏物語作中人物論集』 森一郎編著 勉誠社 (『人物論』)
『源氏物語』上・中・下 村山リウ著 創元社(『村山』)

『潤一郎訳 源氏物語』一~五 谷崎潤一郎著 中公文庫(『谷崎』)

『源氏物語の結婚』 工藤重矩著 中公新書

『源氏物語の論』 秋山 虔著 笠間書房(『の論』)

『岩波古語辞典』 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編 岩波書店(『辞典』)

                                 

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