源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第五段 須磨の生活

【現代語訳】

 須磨のお暮らしには、長くなるにつれて我慢できなくお思いになるが、自分の身でさえ驚くばかりの運命だと思われる住まいに、「どうして紫の上と一緒になど。ふさわしくないであろう」とお考え直しになる。場所が場所だけにすべて様子が違って、源氏のことなど分かりもしないような下人の様子も見慣れていらっしゃらないので、我ながら心外でもったいなく思いになる。煙がとても近くに時々立ち上るのを、「これが海人の塩を焼く煙なのだろう」とずっとお思いになっていたのは、お住まいになっている後ろの山で、柴というものをいぶしているのであった。珍しいので、
「 山がつのいほりに焚けるしばしばもこととひこなむ恋ふる里人

(山人が小屋で柴というものを焚いているが、しばしば訪ねて来てほしい、わが恋しい都の人よ)」

 冬になって雪が降り荒れたころ、空模様も格別に寂しく御覧になって、琴を心にまかせてお弾きになって、良清に歌をうたわせ、大輔は横笛を吹いて、お遊びになる。心をこめてしみじみとした曲をお弾きになると、他の楽器の音はみなやめて、涙を拭いあっていた。
 昔、胡の国に遣わしたという女の話をお思いやりになって、「自分以上にどんな気持ちであったろう。この世で自分の愛する人をそのように遠くにやったりしたら」などと思うと、実際に起こるように不吉に思われて、「霜の後の夢」と朗誦なさる。
 月がたいそう明るく差し込んで、仮そめの旅のお住まいでは、奥の方まで素通しである。床の上から夜の深い空も見える。入り方の月の光が寒々と見えるので、「ただこれ西に行くなり」とひとり口ずさみなさって、
「 いづかたの雲路にわれもまよひなむ月の見るらむこともはづかし

(果てしない旅をどこへ私もさまよって行くことであろう、真っ直ぐ西にむかう月が

見ているだろうと思うと恥ずかしいことだ)」
いつものように眠られない明け方の空に、千鳥がとても悲しい声で鳴いている。

「 友千鳥諸声に鳴く暁はひとり寝覚の床もたのもし

(千鳥の群れが声を合わせて鳴く明け方は、独り寝覚めて泣く私も心強い気がする)」
 他に起きている人もいないので、繰り返し独り言をいって臥せっていらっしゃった。
 明け方早くにお手を洗い、御念誦などをお唱えになるのも、珍しいことのように、たお暇を取って出て行く者もいない。お見捨て申し上げることができず、家にちょっと退出することもできなかった。

 

《さて、いよいよ須磨での生活が始まるのですが、その話の前提として、源氏の現在の心境が語られます。

無為のままに凡々として、ただ寂しいばかりの日が過ぎていき、「長くなるにつれて我慢できなくお思いになる」につれて、これまで幾度も考えた紫の上を呼び寄せることを、またしても思い描くのですが、諸事情がそれを許すはずもなく、またしても断念するしかありません。

住まいのあたりを漂う柴を焚く煙を、都で歌言葉としてよく知っていた「藻塩焼く煙」がこれかと、思い違えたという小さなエピソードが挟まれます。柴を焚くのは、霜よけなのでしょうか、最初からそう書いてしまえばよさそうなものですが、わざわざ間違えたことにしたのは、作者が若い頃父の越前赴任に同行した時の実際の経験かも知れません。「柴というものをいぶしているのであった」は原文では「柴といふものふすぶるなりけり」と、詠嘆表現(気付きの「けり」)になっていて、驚いた気持になっています。その木の名から「しばしば」を思い、ひとしお都の人々が恋しく思い浮かべられた、という趣です。

半年が過ぎて、冬に入り、「空模様も格別に寂しく」なります。

「ただこれ西に行くなり」は月を詠んだ道真の詩句で、『集成』によれば、次に「左遷ならじ」と続くようで、「月に託してわが身の無実を詠じたもの」と言います。自分は無実のまま左遷されて西に行く、ということでしょうか。源氏の歌の「恥ずかしい」は、そういう自分を月に向かって恥じる思いなのでしょう。

ますます荒涼たる辺土の地で、音楽を奏でれば涙、夜の月を見れば涙、そして暁に遠く千鳥の声を聞けば、また涙、の毎日だったのでした。

そういう悲しみの源氏を土地の従者たちは「お暇を取って出て行く者もいない。お見捨て申し上げることができず」家にも帰らないと言いますが、これは、前節の紫の上の侍女達が「お暇を取って出て行く者もいない」とあったのに対応する形で、「栄花を失しても、二人の生来の魅力は、これほど強い」(『評釈』)のです。》

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第四段 都の人々の生活

【現代語訳】

 都では、月日が過ぎて行くにつれて、帝をはじめ申して、恋い慕い申し上げる折節が多かい。東宮は、誰にもまして、いつもお思い出しになっては忍び泣いていらっしゃるので、お世話している御乳母や、それ以上に王命婦の君は、ひどく悲しく見申しあげる。
 入道の宮は、東宮のお身の上をそら恐ろしくばかりお思いだったので、大将もこのように流浪の身におなりになっているのを、ひどく悲しくお嘆きになる。
 ご兄弟の親王たちや、親しくし申し上げておられた公卿などは、初めのうちはお見舞い申し上げなさることもあった。しみじみとした漢詩文を作り交わし、それにつけても、人々のたいへんな礼讃をお受けになっていらっしゃるので、后宮がお聞きあそばして、きついことをおっしゃったのだった。
「朝廷のお叱りを受けた者は、勝手気ままに日々の食事をすることさえ難しいと言います。風流な住まいを作って、世の中を悪く言ったりして、あの鹿を馬だと言ったというけしからぬ人のように追従しているとは」などと、よくないことが聞こえてきたので、厄介なことだと思って、手紙を差し上げなさる方もいない。
 二条院の姫君は、時が経つにつれて、お心のやすらぐ折がない。東の対にお仕えしていた女房たちも、みな移り参上した当初は、「まさかそれほどではあるまい」と思っていたが、お仕えし馴れていくうちに、お優しく美しいご様子も、日常の生活面についてのお心配りも、思慮深く立派なので、お暇を取って出て行く者もいない。身分のある女房たちには、時たまお姿をお見せなどなさる。「多くの夫人方の中でも格別のご寵愛も、もっともなことだ」と拝見する。


《またここで話は一転して、都の様子を伝えます。『評釈』は「大弐とともに京にのぼろう」と前の節からつなげ、また「都人から見はなされた源氏に、読者は涙を流さなくてはならない」と言いますが、大弐の話の続きと見るのにも、また源氏の不遇を語っていると見るのにも、少し無理があるように思われます。

ここはこの地で以下に起こる大きなできごとを語る前の、ここまでの状況の総まとめといった位置づけと考えるのがいいようです。

まず「ご兄弟の親王たちや、お親しみ申し上げていらっしゃった上達部」の話が新鮮で、漢詩文を交わして交感したという話も、またそれに対する后宮の反応・措置も、いかにもありそうな出来事で、都の動きにリアリテイを与えています。

なお、大后の言葉の中の、「しかを馬だと言った…」といのは、『史記』にある話で、権力のある者に阿る人のことだと言います。

さて、読者の何よりの心配は紫上で、あの純真にして明朗だった彼女が、前の消息(第二段2節)では、源氏の離京以来「お枕も上がらず、尽きぬ悲しみに沈まれている」といった案配だったのでした。

そのままだったら、あまりに大きな気がかりなのですが、ここでは彼女がその悲しみに耐えて、みごとに留守を守っており、新しく彼女にお仕えするようになったかつての源氏の侍女達からも、しっかり信頼を得てきていることが語られて、その女房たちとともに、読者もさすがだと胸を撫でおろします。

さて、こうして物語は、やおら、新たな出来事へと移って行くことになります。》

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第三段 筑紫五節と和歌贈答 ~その2

【現代語訳】2

五節は、やっとの思いでお便りを差し上げた。
「 琴の音にひきとめらるる綱手縄たゆたふ心君知らるるや

(琴の音に引き止められた綱手縄のように、ゆらゆら揺れているわたしの心をお分か

りでしょうか)
 色めいて聞こえるのも、お咎めくださいますな」と申し上げた。

微笑んで御覧になるさまは、まったく気後れする美しさである。
「 心ありて引き手の綱のたゆたはばうち過ぎましや須磨の浦波

(本当に私を思う心があって引手綱のように揺れるというならば、通り過ぎて行くで

しょうか、この須磨の浦を)
 漁りをすることになろうとは思ってもみないことであった」とある。

宿駅の長に句詩をお与えになった人もあったが、それ以上にこのまま留まってしまいそうに思うのであった。

 

《「五節」というのは、花散里の巻でほとんど「筑紫の五節」という名前だけ登場した、「前に源氏の恋人だった人」(『集成』)で、大弐の娘です。「やっとの思いでお便りを差し上げた」というのは、父の大弐が自身で挨拶に行くのを憚ったように、彼女も源氏の許に使いを出すのに憚りもあり、その手立てにも苦労したのでしょう。したがって彼女の手紙はひそかに届けられたわけです。

当時、女性の側から先にこういう思いを伝えるのは珍しいと思われます(それは原則的には現代も同じでしょう)が、かつて空蝉がそうであったように、源氏に対しては時々そういうことがあるようです。やはり源氏は特別な人なのです。

その素直であからさまな恋文を源氏は「微笑んで御覧に」なります。中の品の女の純朴で切なる思いを愛でる気持と取るのがいいでしょう。『集成』のように「にやりとして」と訳すと、まったく違う内容になりそうです。源氏の、歌はともかく、後書きはたいへんまじめなものです。

終わりの「宿駅の…」以下は、菅原道真が流された時の故事をふまえたもので、その時の漢詩句が今に伝わっているが、この源氏の歌も残るだろう、という意味と、源氏の歌を見た五節がこのままここに残ってしまいそう、の二つの意味になっている、と『評釈』が言います。あわせて源氏を道真の悲劇とダブらせるという意味もあるでしょう。

前節で源氏を孤立無援と書きましたが、大切なことは、当然ながらそういう不遇の中にあって源氏が決してみすぼらしくならないところです。彼は親密な従者達とともに月を愛でて悲しみの歌を詠むことで励まし合い、かつて世話した今をときめく者の挨拶を受け、その娘と恋の歌を詠み交わすという、何とも風雅で心豊かな生活をしているのです。読者にとって、彼の孤立無援は、その生活を引き立てる「わさび」といったところでしょうか。

紫式部よりも少し後の顕基中納言と呼ばれた人が「配所の月、罪なくして罪をかうぶりて、配所の月を見ばや」と願ったという話が『発心集』巻五にあるそうですが、その先達といったところです。》


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