源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

[余段]~その5 「本当の人間」について 

 私たちは現実の人間関係の中で、いろいろ楽しい思いをしたり、ありがたく思ったりすることはよくありますが、心を打たれ、人間というものそのものを理解するというようなことは、そう多くはありません。
 それは、現実の人間はあまりに複雑で、というよりもそういうことを思うには、自分との関係性とか相手の背後の事情などのあまりに多くの夾雑物が挟まっていて、こちらの視点も揺れるし、相手の統一的姿が見えづらく、言ってしまえば相手が不純物として見えるからなのだと思います。
 それはまた、自分自身を見つめる時にでも、同じようなことが言えます。

当節は、人間、ありのままが一番いいという考え方があって、「世界に一つだけの花」という歌は「NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」と歌いますが、それでも、だからただそこにいればいいのではなく、「一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい」というのであって、それは逆に、「(自分の)花を咲かせる」こと、純粋に自分として見事に生きることが、実は普通の人にとってどれほど難しいかという思いを秘めてもいるのです。


 もちろん、純粋というのは単純ということではありません。自分の純粋を守るために、どれほどの不純が必要であることか。しかしそれを不純と感じることこそが、また純粋であることの証しでもあるのであって、そういう逆説が、求める思いが真摯であればあるほど深い悲劇を生むことになります。優れた物語の多くが悲劇である所以です。

優れた文学作品の登場人物は、多分、言わば鉱物の結晶のように純粋に磨き上げられているのです。実在する偉大な人物というのも、あるいは何等かの意味で純粋な方々なのかもしれません。

私たちは作品を読みながら、そういう、必死で自分らしく生きようとする(そして多くそれに挫折する、または守ったが故に悲劇を迎える)人物達に出会って、初めて本当の人間に出会ったという気がして、彼の活躍する世界の方を、現実より魅力的な現実と感じるわけです。その世界は、当然現実の世界よりも純粋化されていて、しかも有機的に構成されています。多分私たちは心の奥でそういう世界を求めているのです。


 現実の人間は「類型」であり、文学の人物は「典型」だと、昔、中村光夫の本(『風俗小説論』だったでしょうか)で読みましたが、分かりやすい区別だと思います。

典型というようなものは現実にはめったに存在しませんから、それは本当の(つまり、生の、ということですが)人間理解ではないとも言えそうですが、もしそういうふうに言う人がいれば、それは多分文学に感銘したことのない、文学の毒に触れたことのない人なのではないでしょうか。

優れた作家は、言葉でその夾雑物をそぎ落として、あるいは必要な強調をして、純粋な結晶を描き出します。

それは、仏師が丸木の中に彼にだけ見えている仏像を彫り出すように(本当にそうであるかどうかは知りませんが)、また睡蓮の葉に水面を覆われた池から不要の葉っぱを取り除いて美しい絵に仕立て上げる画家のように、そしてまた、掃除を終えたばかりの庭にわざと一、二枚の落葉を散らして秋を演出した法師のように、です。

そしてそういう典型が、源氏物語の場合、例えば近代の「暗夜行路」、「夜明け前」、「細雪」などよりも、より隅々の登場人物達まで(数が多いという意味ではなく、より緻密に、という意味です)、生き生きとより鮮明により美しく描かれて、その結果、そこにそういう人物たちによる仮想の一つの社会(世界)が創造されているように思われて、読者はその見事な人間たちの織りなす、美しい(あるいは痛切な、愉快な、暖かな)世界に引き込まれて、ひととき一緒に生きたような思いを抱くのです。

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[余段]~その4 源氏物語の人物について

  このブログを綴り始めたころ、俊秀の国語の先生から、光栄なことに、大変な質問を受けました。いわく、世界文学を優秀な順に上位から十編選ぶ時に、日本文学の中で入る可能性があるのは源氏物語だけだという話もあるが、では例えば高校生に分かるように一言で言うと、源氏物語の結局どこが素晴らしいのか。

おこがましいことは承知の上で、私はそれに一応以下のように返事しました。

 

一言で言えば、それは、そこに「人間」が描かれているという点だと思います。

そして付け加えれば、その人間が、他のどの作品よりも生き生きと、かつ数多く、描かれている点だと思います。

以下は不要の説明かと思いますが、私の覚えのためと、「高校生」のために言えば、…。

 

紫の上ほど無垢で聡明で愛らしい女性を私たちは他の作品で見つけるのは難しいし、現実の中ではもっと困難です。明石の上ほど賢明で誇り高くかつ慎み深く従順な女性も同様です。そして、妖艶にして純真な朧月夜の尚侍、気品と知性に溢れながら己の内なる業に翻弄される六条御息所、おそらくは娼婦であろう可憐な夕顔、豊満で観音のような母性の藤壺、などなど。

私たちが物語を読んでいる時、これらの人は、まるで実在する人のように存在感を持って、しかも文句なく大変魅力的に、そこにいます。

そしてそのことは、例えば源氏を空蝉に手引きする小君の献身の少年らしさ、明石の入道の一徹で情味溢れる人柄、惟光のいかにも小回りの利く従者ぶり、浮舟に寄り添う右近や侍従、さらにはただ一度、藤壺との破局に動揺している源氏をさらに不安に墜とす諷刺のほんの一言を言う役割も貰っているに過ぎない藤大納言に至るまで、さまざまな形で登場する脇役達にも言えることです。

もっとも、不思議なことに、光源氏や薫、匂宮という主要な男性たちについては、私は作者が入れ込んでいるほどの魅力も、また実在感も感じることができませんでした。

光源氏については、その時々の話の都合で変幻しすぎるように見えました。薫はあまりにも何もしなさすぎて人柄が小さく見えてしまいますし、匂宮の振る舞いは全く放蕩に過ぎず、女性にとっては悪魔的魅力があるのかも知れませんが、ただの風俗的な存在にすぎないように見えます。この作者は「男」を、絵になるワンカットの姿としてはうまく描けても、統一的に人格として描くことは不得手だったように思います。

しかし、女性については文句なく多彩に存在させているように思われ、そういうふうに考えると、例えば清少納言は『枕草子』一巻で、清少納言という極めて魅力的な個性一人を見事に表現した、ということのなるのではないでしょうか。

もちろん念のために言えば、そのように表現された人物の数が多いからと言って、それがそのままその作品の優劣になるというのではないことは、言うまでもありません。数よりもさきに魅力の度合いが大きいでしょう。ただ、数もまた、小さくない要素ではあります。

で、次は、それを仮にそうだとして、ではそれがどうした、ということですが、それは段を改めまして…。

[余段]~その3 第一部と第二部、および「物語のその後」について

 『源氏物語』は、光源氏を主人公とする雲隠の巻までを第一部、匂兵部卿の巻から後を第二部と呼び習わされていますが、この二つは、ひょっとすると作者が違うのではないかという説があるくらいに、いろいろ違うところがあるようです。

 私も読んで来て、確かに違うなあという感じを持ちました。例えば、登場人物が、第一部に比べて第二部は極めて少ないことです。それは形の上だけのことのように思えますが、実は語ろうとするモチーフの違いでしょう。

また、途中幾度か触れましたが、話の前後がちぐはぐに思われることが、第一部ではあまり感じなかったのに、第二部には少なからずありました。もちろん私の読む力の不足からということもあるのでしょうが、取りあえず、私の実感です。

 そして実は、もっとも強く感じたのは、薫と匂宮と浮舟の三人の顔の表情が思い浮かばない、ということでした。これももちろん私の想像力不足という点があるのかも知れず、また、『光る』が宇治十帖を「実験小説」と呼んでいたことに引きずられているのかも知れませんが、どうも、拵えられた人物、という印象で、何か、この三人は仮面をつけて演じているという感じが、読んでいる間中、付いて回りました。

『源氏物語』には「巣守帖(すもりのじょう)」というものがあって、かつては、夢浮橋の巻の後に続く巻と考えられていたこともあるのだそうですが、今は後世(鎌倉時代あたりの)別の人の手になるものとされているようで、また、原本は近代の戦火で焼失して、断片の写真版があるだけなのだそうです。

しかし、夢浮橋の後、登場人物たちのその後はどうなるのかという関心は、多くの人に強いようで、『評釈』も「すでに物語り尽くしたのだ、と作者は言うであろう」と言いながら、この後の浮舟の勤行生活には、普通には様々な「危険性」があるが、「薫の一言で、…(救いとなるかどうかは問題としても)いっさいの危険性は解消するであろう」と、一応現実的考察をしており、『講座』所収「現世と彼岸」(阿部秋生著)も「(浮舟はこの後)彼女自身の歌にいう『尼の浮木』としての浮沈を繰り返すほかないであろう」とこの後を考えています。

しかし私には、このお話は、この後など必要なく、これですべてが終わりなのだという気がします。

この宇治十帖の話は、坊ちゃん育ちの奔放な行動的青年と、能吏である一方で決定的に精神主義者という、絵に描いたように相違する二人の貴公子と、皇族の末裔でありながら東国育ちという極めて異例な初心の女性との三人が織りなす、異例の事件を描いた物語です。それはつまり、現実にはあり得ない事件だということであって、この物語は、意図的に、それこそ実験的に仕組まれた物語だと思われますので、こういう異例づくめの人物の現実的なその後を考えても、あまり意味のあることではないような気がします。

彼等は作者に言いつかった役を十分に演じ終えました。芝居の幕が下りて舞台を降りた後の役者は、帰って寝ようが、居酒屋にしけこもうが、そこまで観客が追いかけて行って詮索するのは意味のないことではないでしょうか。

彼等は、第一部の人たちと違って、舞台の上だけの存在なのだと私には思えるのです。

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