源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

[余段]~その7 余段の終わりに

   二〇一四年(平成二十六年)の一月四日から書き始めたこのブログですが、四年と三十四日目の先日、最後までたどり着きました。

前書きは少々力が入って、偉そうなことを書きましたが、もともとは、以前通読した時に、読みながらいろいろ考えるのにそれが次々に消えていくのが残念で、その足跡が残せないかと思ったこと、それと、読み流さないで、ともかくきちんと読んで見たいと思ったこと、の二つが動機でした。

ここまでこられたのは、前段で書いた通り、何よりも『評釈』と『集成』と渋谷訳があったお蔭です。

終わるにあたって厚くお礼申し上げます。

また、それと同じように、アクセスしていただいた思いがけないたくさんの方にも、厚くお礼を申さねばなりません。その日ごとの数字を記録しながら、その増減に、さまざまな空想をして楽しみの一つとしていました。秋に急に増えたときは、高校で試験範囲なのかな、とか、暮になって少なくなってくると、そろそろ年越しで忙しく源氏どころではなくなってきたのだろう、とか、…。ありがとうございました。

そして、このブログを立ち上げてくれた娘にも、礼を言っておきます。

 

さて、これで私の「源氏物語」語りは全部終わり、また来年一月四日から、新しいものでスタートしたいと思っています。

もしよろしければ、そして覚えておいていただければ、ここからリンクできるようにしますので、またお付き合いいただけると嬉しく思います。

ただ、今度は、やはり古典ではありますが、ちょっと毛色の変わったものに向き合って見ようと考えて、取り掛かり始めて十日ほどになります。

難渋していますが、何とかじりじりと進めています。

久々に豪雪の冬、せっかく咲きかけた蠟梅が、厳しい冷え込みに、すっかり色あせてしまいました。

いつ訪れるともしれない春の気配を、それでももうすぐのはずと待ちながら、しばらく充電の期間とします。

ごきげんよう。

                                                   2018/2/14  安 田 和 彦
                                                    

[余段]~その6 注釈書について

 私がこのブログを書いているということをさる旧友に語ったところ、昨年五月ごろ(宿木を書いているころです)、その彼が、「東京私学教育研究所」文系教科研究会(国語)ニュース第34号という冊子を贈ってくれまして、そのなかに、『「源氏物語」の思想は、平和か破壊か』と題する島内景二・電気通信大学教授の講演記録が載っていました。

 その中に「注釈を読むということ、注釈に支えられて文学作品を理解するということは、こういう楽しいことだったのかということを理解して、自分なりに『源氏物語』に開眼したのです」というお話があり、このブログの終盤を編み続けるのに、ずいぶん力づけられました。

私の読み方は全くそうだったので、『評釈』と『集成』がなくては、全く字面を追うだけになったはずの読書が、少なくとも私としては一応読んだと言えるものになったのでした。

私はこのブログの前に「徒然草・つれづれ」というブログを綴りました。その時は「徒然草全注釈」と『集成』を脇に置いていました。

文学は、ほんとうはそういう注釈によらず、虚心に自力で読むべきではないか、注釈というのは、自力で読み終わった後で、「参照」するべきものだという気持がずっとありまして、実はこのブログを始める数年前に、『集成』本で一回読み、次に『谷崎』本で椎本の巻まで読んだのでしたが、私ごときの力では到るところに意味不明の話が出てくるし、登場人物たちの気持の推移についていけない気がするところが随所にあり、おまけに、長い話なので、前に書かれてあったことを忘れてしまうし、ということで、その時は、ただ字面をなぞってただ読んだ、というだけに終わりました。

昔、NHKの大河ドラマで、坂本龍馬がオランダ語を学ぶきっかけになる場面があり、竜馬が初めてみる原書を開いて、同じ人間が書いたものが、勉強しなければ分からんということがあるかと、にらみつけているところがありましたが、それに似た思い上がりがあったわけです。

このブログを思い立って、注釈書を中心において読んでみると、たいへん読みやすいし、よく分かります。今回も、この二書に導かれて(と言うか、気ままに利用して)読み進めたところ、実に分かりやすく、まったく「こういう楽しいことだったのかということを理解」しました。

島内教授が拠り所とされたのは、『湖月抄』(北村季吟著)だったそうですが、今回の私にとっては、『評釈』がそうで、多分『湖月抄』と比べればはるかに読みやすく、時に著者固有の文学趣味、いささか独断的な人生感が強すぎるきらいがあるとはいえ、失礼ながらそれもご愛嬌という感じで、大変な労作で、このブログを終わるにあたって、改めて深く敬意と謝意を捧げたいと思います。

想像力と創造力が命と思われる文学の理解といえども、先達の作業を後追いするところから始めてよいのだという宣言は、すがすがしく、ありがたいものでした。

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[余段]~その5 「本当の人間」について 

 私たちは現実の人間関係の中で、いろいろ楽しい思いをしたり、ありがたく思ったりすることはよくありますが、心を打たれ、人間というものそのものを理解するというようなことは、そう多くはありません。
 それは、現実の人間はあまりに複雑で、というよりもそういうことを思うには、自分との関係性とか相手の背後の事情などのあまりに多くの夾雑物が挟まっていて、こちらの視点も揺れるし、相手の統一的姿が見えづらく、言ってしまえば相手が不純物として見えるからなのだと思います。
 それはまた、自分自身を見つめる時にでも、同じようなことが言えます。

当節は、人間、ありのままが一番いいという考え方があって、「世界に一つだけの花」という歌は「NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」と歌いますが、それでも、だからただそこにいればいいのではなく、「一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい」というのであって、それは逆に、「(自分の)花を咲かせる」こと、純粋に自分として見事に生きることが、実は普通の人にとってどれほど難しいかという思いを秘めてもいるのです。


 もちろん、純粋というのは単純ということではありません。自分の純粋を守るために、どれほどの不純が必要であることか。しかしそれを不純と感じることこそが、また純粋であることの証しでもあるのであって、そういう逆説が、求める思いが真摯であればあるほど深い悲劇を生むことになります。優れた物語の多くが悲劇である所以です。

優れた文学作品の登場人物は、多分、言わば鉱物の結晶のように純粋に磨き上げられているのです。実在する偉大な人物というのも、あるいは何等かの意味で純粋な方々なのかもしれません。

私たちは作品を読みながら、そういう、必死で自分らしく生きようとする(そして多くそれに挫折する、または守ったが故に悲劇を迎える)人物達に出会って、初めて本当の人間に出会ったという気がして、彼の活躍する世界の方を、現実より魅力的な現実と感じるわけです。その世界は、当然現実の世界よりも純粋化されていて、しかも有機的に構成されています。多分私たちは心の奥でそういう世界を求めているのです。


 現実の人間は「類型」であり、文学の人物は「典型」だと、昔、中村光夫の本(『風俗小説論』だったでしょうか)で読みましたが、分かりやすい区別だと思います。

典型というようなものは現実にはめったに存在しませんから、それは本当の(つまり、生の、ということですが)人間理解ではないとも言えそうですが、もしそういうふうに言う人がいれば、それは多分文学に感銘したことのない、文学の毒に触れたことのない人なのではないでしょうか。

優れた作家は、言葉でその夾雑物をそぎ落として、あるいは必要な強調をして、純粋な結晶を描き出します。

それは、仏師が丸木の中に彼にだけ見えている仏像を彫り出すように(本当にそうであるかどうかは知りませんが)、また睡蓮の葉に水面を覆われた池から不要の葉っぱを取り除いて美しい絵に仕立て上げる画家のように、そしてまた、掃除を終えたばかりの庭にわざと一、二枚の落葉を散らして秋を演出した法師のように、です。

そしてそういう典型が、源氏物語の場合、例えば近代の「暗夜行路」、「夜明け前」、「細雪」などよりも、より隅々の登場人物達まで(数が多いという意味ではなく、より緻密に、という意味です)、生き生きとより鮮明により美しく描かれて、その結果、そこにそういう人物たちによる仮想の一つの社会(世界)が創造されているように思われて、読者はその見事な人間たちの織りなす、美しい(あるいは痛切な、愉快な、暖かな)世界に引き込まれて、ひととき一緒に生きたような思いを抱くのです。

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