源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

おしらせ

あけましておめでとうございます。
『徒然草』、『源氏物語』に続く私のブログ第三弾は『正法眼蔵』としました。
明日2019年1月4日から公開予定にしております。
新しいブログ名は『正法眼蔵』を読んでみます」です。

リンクになっていますので、よろしければ覗いてみて下さい。

『源氏物語』以上に分を弁えない企てであることは承知していますが、

という弁明をしたいのですが、今更ですので、今度は言わずに始めます。
どうぞよろしくお願いします。

[余段]~その7 余段の終わりに

   二〇一四年(平成二十六年)の一月四日から書き始めたこのブログですが、四年と三十四日目の先日、最後までたどり着きました。

前書きは少々力が入って、偉そうなことを書きましたが、もともとは、以前通読した時に、読みながらいろいろ考えるのにそれが次々に消えていくのが残念で、その足跡が残せないかと思ったこと、それと、読み流さないで、ともかくきちんと読んで見たいと思ったこと、の二つが動機でした。

ここまでこられたのは、前段で書いた通り、何よりも『評釈』と『集成』と渋谷訳があったお蔭です。

終わるにあたって厚くお礼申し上げます。

また、それと同じように、アクセスしていただいた思いがけないたくさんの方にも、厚くお礼を申さねばなりません。その日ごとの数字を記録しながら、その増減に、さまざまな空想をして楽しみの一つとしていました。秋に急に増えたときは、高校で試験範囲なのかな、とか、暮になって少なくなってくると、そろそろ年越しで忙しく源氏どころではなくなってきたのだろう、とか、…。ありがとうございました。

そして、このブログを立ち上げてくれた娘にも、礼を言っておきます。

 

さて、これで私の「源氏物語」語りは全部終わり、また来年一月四日から、新しいものでスタートしたいと思っています。

もしよろしければ、そして覚えておいていただければ、ここからリンクできるようにしますので、またお付き合いいただけると嬉しく思います。

ただ、今度は、やはり古典ではありますが、ちょっと毛色の変わったものに向き合って見ようと考えて、取り掛かり始めて十日ほどになります。

難渋していますが、何とかじりじりと進めています。

久々に豪雪の冬、せっかく咲きかけた蠟梅が、厳しい冷え込みに、すっかり色あせてしまいました。

いつ訪れるともしれない春の気配を、それでももうすぐのはずと待ちながら、しばらく充電の期間とします。

ごきげんよう。

                                                   2018/2/14  安 田 和 彦
                                                    

[余段]~その6 注釈書について

 私がこのブログを書いているということをさる旧友に語ったところ、昨年五月ごろ(宿木を書いているころです)、その彼が、「東京私学教育研究所」文系教科研究会(国語)ニュース第34号という冊子を贈ってくれまして、そのなかに、『「源氏物語」の思想は、平和か破壊か』と題する島内景二・電気通信大学教授の講演記録が載っていました。

 その中に「注釈を読むということ、注釈に支えられて文学作品を理解するということは、こういう楽しいことだったのかということを理解して、自分なりに『源氏物語』に開眼したのです」というお話があり、このブログの終盤を編み続けるのに、ずいぶん力づけられました。

私の読み方は全くそうだったので、『評釈』と『集成』がなくては、全く字面を追うだけになったはずの読書が、少なくとも私としては一応読んだと言えるものになったのでした。

私はこのブログの前に「徒然草・つれづれ」というブログを綴りました。その時は「徒然草全注釈」と『集成』を脇に置いていました。

文学は、ほんとうはそういう注釈によらず、虚心に自力で読むべきではないか、注釈というのは、自力で読み終わった後で、「参照」するべきものだという気持がずっとありまして、実はこのブログを始める数年前に、『集成』本で一回読み、次に『谷崎』本で椎本の巻まで読んだのでしたが、私ごときの力では到るところに意味不明の話が出てくるし、登場人物たちの気持の推移についていけない気がするところが随所にあり、おまけに、長い話なので、前に書かれてあったことを忘れてしまうし、ということで、その時は、ただ字面をなぞってただ読んだ、というだけに終わりました。

昔、NHKの大河ドラマで、坂本龍馬がオランダ語を学ぶきっかけになる場面があり、竜馬が初めてみる原書を開いて、同じ人間が書いたものが、勉強しなければ分からんということがあるかと、にらみつけているところがありましたが、それに似た思い上がりがあったわけです。

このブログを思い立って、注釈書を中心において読んでみると、たいへん読みやすいし、よく分かります。今回も、この二書に導かれて(と言うか、気ままに利用して)読み進めたところ、実に分かりやすく、まったく「こういう楽しいことだったのかということを理解」しました。

島内教授が拠り所とされたのは、『湖月抄』(北村季吟著)だったそうですが、今回の私にとっては、『評釈』がそうで、多分『湖月抄』と比べればはるかに読みやすく、時に著者固有の文学趣味、いささか独断的な人生感が強すぎるきらいがあるとはいえ、失礼ながらそれもご愛嬌という感じで、大変な労作で、このブログを終わるにあたって、改めて深く敬意と謝意を捧げたいと思います。

想像力と創造力が命と思われる文学の理解といえども、先達の作業を後追いするところから始めてよいのだという宣言は、すがすがしく、ありがたいものでした。

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